散歩が大好きな夫。
毎日1万5千歩、多い日には2万歩以上、歩いている。
まあその歩数のすべてに、私も同行しているわけだが。
連日2万歩以上歩いても、30代の私の足に、異常はないが、70代の夫のヒザやふくらはぎは、悲鳴をあげだす。
夫自身は歩くのが好きだけれども、夫の体、とくに足がそれについてこれない。
連日、歩きすぎて、足が痛くなった夫が「痛い。もうダメだ。もう僕はダメだ」と、怒りながら弱音を吐いた。
ふくらはぎが痛いようだ。
夫はかかりつけ医に、ふくらはぎに張りがあり、それは歩きすぎによるものだから、1日せいぜい1万3千歩程度にした方がいいと言われていた。
だが認知症の人がみな、医者の言うことを聞いてくれるなら、こんなにらくなことはない。
私にとっても、夫の足が痛くならないように散歩を控えめにさせるよりも、夫に歩きたいだけ歩かせてストレスをため込ませないようにさせる方が、大切である。
夫の足が痛くなっても、私に実害はないが、夫のストレスがたまれば、間違いなく私によくない影響を及ぼす。
足の痛みに、この世の終わりのような悲鳴をあげる夫を慰めようとした私は「昨日、今日と、歩きすぎたもんね。寝たら治るよ」と言葉をかけた。
この対応に夫が怒りだし「これは治らないんだ。もうこのままなんだぞ。そんなふうに言われると腹が立つ」と拳を肩まで上げた。
私としては、そんなに悲観することないよ、と励ますつもりで言ったのに、怒られたので、一瞬ムカッとしたが、その場をおさめるために、とりあえず「ごめんなさい」と謝ったら、夫の拳は下がった。
自分はぜったいに悪くないと思う場面でも、とりあえず謝ることに、私は慣れていた。それができないと、認知症の夫との生活は成り立たない。
しかし、今考えてみると、あの時、夫にとって足の痛みは、治るものではなく、一生続く痛みだったのだろう。
もし不治の病の患者さんが「痛い。痛い」と言っていたら、「寝たら治るよ」なんてことは、決して言わない。
そんなことを言うのは大変失礼で、無知なことである。
あの時の夫の痛みは、夫にとっては、寝ても治らない不治の痛みだったのだ。
それなのに安易に「寝たら治るよ」と言ってしまった私は、とりあえずの謝罪ではなくで、心の底からの「ごめんなさい」を夫に言わないといけなかった。
夫にとって、想像は難しい。
安静にしていれば足の痛みが消える未来なんて、想像できないのかもしれない。
それに足の痛みが消えても、今度は別のところが痛くなっているかもしれない。
体のどこかが痛かったことは覚えていても、それがどこの痛みだったのか、覚えていないかもしれない。
夫にとっては、昨日の足の痛みと今日の別の場所の痛みは、短期的な別々の痛みではなく、時間のつながりがある、1か所の痛みに感じるのかもしれない。
「これは治らないんだ。もうこのままなんだぞ。そんなふうに言われると腹が立つ」
そう言って夫は、自分の痛みを表現してくれた。
遅くなったけれども、あのとき夫が教えてくれたことに、気づけてよかった。
これは、私の過去(2020年10月)の日記を加筆修正したものです。