私と夫が出会ったとき、私は20代前半、夫は50代後半でした。
私は、夫と出会って数日で、今が自分を変えるチャンスだと悟りました。
今この人についていかなければ、私の人生は生きがいもなく、ただ過ぎていくだけだろう、と。
私は中学1年生の2学期から不登校ぎみになり、3年生のときは、ほとんど学校に行っていません。
なのに、なぜか中学校を卒業できるということで、親と担任に勧められるまま、なんとなく定時制高校に進学しました。
その高校も2年生のときに退学。あとは、アルバイトをしたり、家に引きこもったり、ふらふらした生活をしていました。
そんな私が、アルバイトで貯めたお金で、1か月間の沖縄離島巡り一人旅に行き、そこで出会ったのが、夫です。
南国の一人旅での出会い。それもずいぶん年上の男性。となると、なんらかの危険が潜んでいる可能性があるので要注意ですが、私にとってその出会いは、私の生き方を変える大きなきっかけになりました。
旅行から帰ってきた私は、通信制高校に入りなおして、1年半後に高校を卒業。
その後、専門学校に入学して資格をいくつかとり、卒業と同時に、小さな事務所でしたが、正規職員として就職することができました。
おりしも派遣切りが社会問題になっていた時期で、変化するための努力の大切さを痛感しました。
夫とは当初、私が正規職員になれたら、私の将来のために、もう会わないようにしようという約束でした。
私が手に職をつけ正規採用されることが、私と夫の目標だったのです。
ですが、その約束はいつのまにか消えていました。
私と夫は2人でがんばって、私を成長させたのです。
もし、私の傍にいてくれたのが、夫ではなく親ならば、永遠に続く関係ですから、切る必要はありません。
ですが、夫は、赤の他人です。切れば、終わりの関係です。
二人とも、他人の間にできた貴重な絆を切ることが、できなかったのです。
夫が私にしてくれたことは、それは厳しい、心臓が血を流しているのではないかと思えるぐらい厳しい叱咤と、前に進む力を与えてくれる激励と、私を見捨てないことでした。
夫は、どんなことがあっても、私を見捨てなかった。
それは、夫自身が見捨てられたくなかったからかもしれません。
夫にはモラハラの気があり、私を言葉で支配して自分が優位でいようとして、私は、夫のそういうところが大嫌いでした。
ですが、私は私で、夫の励ましがなくなると、自分が前に進むことができなくなる、がんばることができなくなるような気がして、夫の横暴に耐えていました。
共依存状態だったかもしれません。
ですが、私と正面から向き合ってくれ、私を一人前の大人に育ててくれたのは、親ではなく、夫です。
その夫が認知症になりました。
他人である私が、地獄をみるという認知症の介護なんて、続かないことは目に見えていました。
中途半端にかかわるぐらいなら夫と縁を切る。
もしくは、結婚して一緒に暮らす。
この2択で、私は迷わず結婚を選びました。
今まで私のことを見捨てずに傍にいてくれた夫を、私は見捨てることができませんでした。
認知症の介護をなめていたわけではありません。
夫を見捨てられなかったから、結婚すると決めました。
そして、夫の認知症の病状がすすんで、夫が自分の生き方を決められなくなったとき、私が夫にかわり、夫の生き方を決める、その覚悟の表れとして、婚姻届けを出しました。
私の決断で、夫の暮らしが大きく変わる。
私の決断で、夫の命の長さが変わる。
配偶者になることは、私の覚悟をもった決断が土壇場で無下にされないための法的手段でもあります。
苗字は私が夫の姓にしました。それは慣習からではなく、夫の名前をかえてしまうと、夫が自分の名前をわからなくなってしまうからです。
私にとって結婚は、配偶者として夫に対する責任・義務・権利を手に入れるための手段であり、夫の暮らしと命に対する責任・義務・権利をまっとうする覚悟の表れなのです。