夫の幻聴と自分が壊れていく恐怖

エッセイ



これはまだ、夫の認知症が初期のころの話です。

夕食の後、夫は台所で洗い物、私は別の場所で用事をしていました。

先に私の用事が片づいたので、夫を手伝おうと話しかけたら、夫に「うるさい」と怒鳴らました。

ただ話しかけただけで怒られたので、私も訳がわからず戸惑いましたが、反射的に「ごめんなさい」と謝っていました。

どんなに理不尽なことで怒られても謝る。それはまさに苦行でしたが、認知症の夫が怒りだしたら、どんな状況でも謝るしかなかったのです。

謝りながら夫の話を聞いていると、夫も落ち着いてきて「周りにいる人がなんやかやと自分に言ってくる」のだと教えたくれました。

ですが、そこには、私と夫しかいません。

「言ってくるのは、自分が知っている人のような、そうでないような人」

「その人たちが、自分が言われたくないことを言ってくる」

「その人たちと私を間違い、私を怒鳴ってしまった」

「でも、本当はそんな人たちいないんだろ」

「聞こえないはずの声が、聞こえたんだろ」

「自分がおかしくなったんだ」

「自分が、おかしくなってしまったんだ」

「もし、自分がもっとおかしくなって、人に危害を与えるようになったら、どこかに閉じ込めてくれ」

夫は、私に、そう頼みました。

『人に迷惑をかけたくない』という意志と、その意志に反して、『制御が効かなくなった自分が、なにをしてしまうのかわからない』という恐怖。

このとき私は、夫に、夫の監視を託されたのです。

『もし、夫が、誰かに、危害を加えそうな人になったら、私が責任をもって、どこかに閉じ込めます』

私は、そう夫に、約束しました。

「だから大丈夫」

夫を守るということは、夫を加害者にしないとうことでもあります。

夫の晩節を汚さぬようにする、それが私の役目の一つ。

そして、夫と約束はしましたが、私は、夫をどこにも閉じ込めたくはありません。

だから、私は、夫が誰かを傷つけないように、見張っています。