認知症の人は不幸なのか

私の夫は認知症であり、世間の物差しを借りて夫の認知症の程度をはかれば、重度かその一歩手前です。

ですが夫は、たぶん幸せです。私は夫ではないので、たぶん、と前置きはしますが、ほぼ確信を持って、夫は日々の生活の中で幸せを感じている、と私は思っています。

私がそう思うのは、私が幸せだからです。

常時、介護や介助が必要な夫との暮らしは、心身ともに互いの距離が近くなります。

そんな家庭内で、私が幸せで、夫が不幸だとしたら、それは私がサイコパスなんだろうと思いますが、たぶん私はサイコパスではありません。

心身ともに近い距離で二人が一緒に暮らしていて、一人が幸せなら、もう一人も幸せだろうな、と思うのです。

さらに夫は認知症で、自分の感情を偽りの表情で隠すことができません。自分の感情を隠すことができない素直な夫の幸せそうな顔を見て、私も幸せになります。

私たちが幸せなのは、私と夫の環境が恵まれているからだろうと思われたなら、その通りです。私たちは恵まれています。

ですが、私たちが幸せであることは事実です。

世の中の認知症の人の報じられ方で、私がすごく違和感を覚えるのが、認知症になることがすなわち不幸であるように捉えられていることです。

認知症になったら人生終わり。そう考える人にとっては、そうでしょう。その考え方を否定しないし、そうとしか考えられないのだとしても、それは他人がとやかく言うことではありません。

でももし、自分の家族が認知症になった、けれど、認知症になった家族の幸せ、介護する家族の幸せ、家族みんなの幸せをあきらめたくないと思われる人がいたら、希望はあることを伝えたいです。

認知症の進行段階の説明を読んだり、経過表を見ていると、お先真っ暗な病気のような気がしてきます。治らない病気であることを考えれば、確かにお先は真っ暗かもしれません。

ですがそれは認知症という病の一面でしかありません。

認知症が進むと過去の幸せな記憶は、失われるかもしれません。ですが、幸せを感じられなくなるわけではありません。

認知症は不幸な病気かもしれませんが、認知症の人の人生が不幸だとは限りません。

自分の幸せを願う人がいてくれれば、きっと幸せを感じてくれます。

認知症の人の人生が不幸になるとすれば、幸せを感じることができないと諦められて、誰も自分の幸せを願ってくれる人がいなくなるときです。