介護殺人の見えない部分

メッセージ



介護殺人のニュースを耳にすると、身につまされて泣けてくる。

私は、夫を殺していないけれど、それはたまたま偶然かもしれない。

交通事故でも、なにかが一瞬違うだけで、大事故になったり、危なかったで終わってしまう。

タッチの差。

介護殺人もそれと同じで、タッチの差で殺してしまい、タッチの差で何事もなかった、だけなのかもしれない。

認知症のある人と一緒に暮らしていると、心身ともに疲れはて、自分の精神がおかしくなっていく。

なのに、こちらの状況を全く察してくれない人の世話をして、そのうえ、安全も確保してあげないといけない。

車の運転に例えれば、交通ルールがわかっていない運転手の車と、精神的に不安定なうえ疲労困憊で冷静な判断ができない運転手の車が、同じ道路を走っている状態。

そんな道路、いつ事故がおこってもおかしくない。

でも、認知症のある人と暮らす家庭内では、時として、そんな状態になることがある。

それも、閉ざされた家の中で。

あの時、ほんの一瞬、なにかが私のブレーキをかけた。

ニュースになった事件の背景になにがあったのか、それは私にはわからない。

ほんの一瞬、ブレーキがかからなくなったのか。

いっそ全て終わってほしくて、ブレーキをかけなかったのか。

ブレーキ自体が壊れたか。

どうしていたら、その一瞬、ブレーキをかけることができたのだろう。

きっと事件になる以前にも、危機的な場面は幾度かあって、かろうじてブレーキを踏んできた。

大きく取り上げられた事件の裏には、そこに至るまでの前兆があったはず。

そのとき、誰かが手を差し伸べてくれていたら、そして、その手を掴んでくれていたら。

自分のことを顧みると、私が追い詰められていたとき、そこには孤独と孤立があった。

『孤独』思うことを語ったり、心を通い合わせたりできる人が一人もいないこと。
『孤立』一人だけ他から離れて、つながりや助けのないこと。

誰も自分の気持ちをわかってくれない。

誰にも自分の気持ちなんかわからない。

誰も自分を守ってくれない。

誰も自分を助けてくれない。

誰も自分を見てくれない。

その気持ち、私に聞かせてください。

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