じょうぶな頭 と かしこい体

『じょうぶな頭とかしこい体になるために』は、五味太郎さんが現代を生きる子どもたちに向けて書かれた本です。

身近な大人に質問しても「なにをくだらないこと聞くんだ」と一蹴されてしまうようなことを、わらかないことは正直にわからないと言い、だけども自分はこう思うよと、子どもの質問から逃げずに答えています。

〈かしこい頭〉は、大人の言うことは素直に聞いて、決められたことはきちんと守る。
〈じょうぶな頭〉は、大人に言われたことの意味をたしかめ、決められたことの内容を考える。

〈じょうぶな体〉は、決してさぼったり、ごまかしたりはしない。
〈かしこい体〉は、やるときはやるし、さぼりたいときはすぐさぼる。

「かしこい頭とじょうぶな体」を作るための訓練や方法は世の中にいやというほどあるけれど、頭をじょうぶにし、体をかしこくするものは驚くほど不足している。

この本は、頭がもっとじょうぶになるための、体がもっとかしこくなるためのトレーニングです。

じょうぶな頭とかしこい体になるために ーはじめにーより筆者要約



なぜ私が、この本を買ったのか。それは、帯に書かれた言葉に惹かれたからです。

自分でやるしかありません。

自分で考え、自分で悩み、自分でしっかり、自分をはげまし、そして自分を可愛がってゆくしかないのです。

そのために、けっこうきつい問題でもなんとかこなせる〈じょうぶな頭〉と、好きは好き、嫌いは嫌いとはっきりわかる〈かしこい体〉が必要なんだろうと思います。

コロナ禍の介護で、人に会えず、自分の気持ちを誰にも話せず、自分を励ましてくれる人もおらず、負の感情が自分の中にどんどん積み重なっていく。

私の話を聞いてくれようとした人に、今の私の辛さを話してみたら、そうじゃないんだよな、というような答えが返ってくる。聞いてくれようとした人が聞き上手とは限らない。失礼かもしれないけれど、わかってもらえないことが余計なストレスになるので、だったら話さない方がマシかもしれない。

結局、自分で自分の話を聞くしかないのだろうなと思いました。

体については、私がさぼれば、夫の安全や命にかかわることもあるので、さぼれない、どうしても動かさないといけないときはありますが、やらなくてもなんとかなるやりたくないことは、やりません。それが私の〈かしこい体〉です。

私は子どものころ不登校でした。それも〈かしこい体〉だったのかもしれません。認知症の夫との生活で、そう感じることがあります。

認知症の人と付き合うことは、けっこうどころか、かなりきついです。それをなんとかこなすには〈かなりじょうぶな頭〉が必要です。

〈かなりじょうぶな頭〉は、自分で考え、自分で悩み、自分の気持ちを自分でよく聞くことで、なんとかするしかないです。

自分で自分の話を聞く。言葉によって自分の気持ちを知り、自分自身を理解することで、自分を大切にできる。

自分の言葉には、毒や悪、矛盾、否定したいことがあります。でも、それがあるのが人間だし、それを含めて人間のおもしろさです。でも、よっぽど聞く技術がある人でないと他人のこんな話は聞けないです。だから自分で聞く。それに自分の闇を知ることは、自分の強さになると私は思います。

できるかぎり自分の頭と体を信じて、生活してゆくしかないと思います。

じょうぶな頭とかしこい体になるために ーあとがきよりー

認知症とはこうだ、認知症の人にはこう接したほうがいい、介護はこうするもの、というような世の中に漂う価値観に振り回されず、自分が見て感じ、自分で悩みながら考えたことを信じる。

そのために自分を勇気づけ奮い立たせてくれたのが「じょうぶな頭とかしこい体になるために」の帯でした。まあ、どん底に落ちすぎて、その言葉だけでは全然足りないときもありましたが。

私が、自分の気持ちを落ち着けようと帯に書かれた言葉を泣きながら繰り返し読んでいると、夫が「自分で自分の気持ちをどうにかしようとしてるけど、どうせどうもできないんだろう」というようなことを言って、私を怒りました。お怒りの原因はおいといて、言っていることが的を得ているし、鋭すぎるので、認知症でもその辺りの感覚は衰えていないのだなと、悔し泣きしながら感心しました。

そのような思い出も込められた帯です。

〈かなりじょうぶな頭〉になれたかどうかはわかりませんが、〈じょうぶな頭〉にはなれたような気がします。

「かしこい頭とじょうぶな体」ではどうしようもできない認知症の夫と暮らすことが、「じょうぶな頭とかしこい体」になるための最高の訓練になっているようです。