夫の「帰る」という言葉に込められた思い。
今までできたことができなくなり、なにを考えてもよくわからなくて、自分が壊れていくようで、不安、怖い、逃げたい、『安全で安心できるところに帰りたい』。
体の具合が悪い夫が「帰る」と言う。
その言葉の根底には、『自分を不安にするものがない、安心して休むことができるところに帰りたい』そんな思いがあるように感じる。
夫が、『帰る』場所を目指して、歩きだす。
けれども次第に『弱くなった自分から逃げたい』『自分が抱える不安から逃げたい』という思いが込み上げてきて、夫を不穏にさせていく。
なにかを目指していた歩みが、なにかから逃げるための歩みに変わる。
いや、夫は、初めから、なにかを目指していて、なにかから逃げていたのだろう。
今までなら疲れなかったようなことで疲れてしまい「なんでこんなふうになってしまったんだろう」と嘆く夫。
「もう僕、死んだほうがいいね」
その夫の言葉を聞くと、私はやるせなくなる。
私は、病を治してあげることはできなし、不安を払ってあげることもできない。
夫の不安は、夫自身が自分の状況を受け入れて、自分で折り合いをつけるしかない。
私が、夫の不安に寄り添っても、夫の不安は、夫のものだから。
夫が想い描く『帰りたい場所』があるのなら、連れて行ってあげたい。
でも、そんな場所は、どこにもないんだよ。
「もう僕、死んだほうがいいね」夫にそう言われて、私がやるせなくなるのは、私が傍にいても、夫の不安を和らげることができていない、という事実。
夫の願望に対して、自分が無力なこと。
私は夫を幸せにしたいから、夫の傍にいるのに。
夫には幸せであってほしい。
そう、私は夫を幸せにしたいのだ。
夫が帰りたい場所。
夫がそこに帰ることができたなら、きっと夫は幸せになれる。
今、その場所は、実在しないかもしれない。
けれども、未来には、その場所が、あるかもしれない。
もしあるとすれば、それは、私の隣。
いつか、私の傍で『ここが自分が安心していられる場所』だと、夫が思ってくれる日が、くるかもしれない。
私にできることは、夫の帰る場所になること。
夫が認知症になった自分と折り合いをつけて、幸せに暮らせる場所になること。
そうなれる日、そうなる日、その日が来るまで、私は夫を待つ。
夫が傍にいてくれれば、私と夫ふたりのために、私はがんばれる。
これは、私の過去(2020年11月)の日記を加筆修正したものです。