家族介護 ケンカと葛藤

私は、父や母を在宅で介護するつもりはない。

母はパーキンソン病で、今は父と2人で暮らしている。

でもいつか父の介助だけでは、母が自宅で暮らせなくなる日がくるだろう。

そうなっても私は、実家に足しげく通って母の介護の手伝いをするつもりはない。

「お母さんが、お父さんのサポートだけでは家で生活できなくなったら、お母さんは施設です」と、両親には言っている。

私は3人兄妹なので、他の兄妹が父と一緒に母の介護を自宅でするというのなら止めはしないし、全く手伝わないということもないだろうが、母の介護が私の日常に組み込まれるほどのことはしない。ちなみに実家は、わが家から車で10分ほどのところにある。

私が認知症の夫と暮らしていると、私のことを優しい人だといってくれる人がいる。

その人が私のなにを見て、私のことを優しい人だといってくれるのかはわからないが、私は、私が優しいから夫と暮らしているわけではない。

私は、夫と一緒にいるのが楽しいから、夫と暮らしているのだ。辛いことや苦しいことはたくさんあるけれども、夫がもたらす苦悩であれば、それすら私にとっては刺激的で貴重な経験と思える。

認知症もパーキンソン病も治らない病気であり、その人の人生に大きな影響を及ぼす病気である。

そのような病気になったとき、その人の中には、病気になったことによる葛藤が生まれるだろう。

そして葛藤は、病気になった本人だけでなく、本人を取り巻く人の中にも生まれる。夫の中に生まれた葛藤を目の当たりにして、私は私で葛藤していた。

葛藤は、すごくエネルギーを使う行為である。

私は、夫の葛藤に寄り添うと同時に、夫に寄り添う自分自身と向き合わなければいけなかった。そして、夫と自分との間で板挟みになり、もがいていた。

もがいて苦しんで、それでもなんとか耐えたのは、それが夫から生まれた葛藤だったからだ。

もしそれが父や母の中から生まれた葛藤だったとしたら、私はその葛藤で、もがきたくもないし、苦しみたくもない。耐えようと思う気持ちもない。

それは、なぜか。

夫は私と正面から向き合いぶつかってくれたが、両親はわが子の心の叫びから逃げた。夫は私を精神的に支え、励ましててくれたが、両親は私の支えになれなかった。

きっと父も母も、わが子の支えになる方法がわからないのだろう。わからなければ、わからないなりに試行錯誤するのが親の役目だと私は思うけれども、両親はそれをしなかった。

もしかしたら両親なりに、試行錯誤していたのかもしれない。ただ、子どもと向き合う、というところが、全くもってたりなかった。子どものことを知ろうとしないで試行錯誤しても、子どもには届かない。

いつのころからか私は、親に、自分の精神的な支えになってもらうことをあきらめていた。それ故、今自分が親を精神的に支えようと思う気持ちが湧かないのだ。

両親と私の関係は、悪いわけではない。はたから見れば、70代の親と40代の子、年相応の親子関係に見えるだろ。父や母を憎んでいるわけではもない。ただ私にとって父や母は、特別に支えたい存在ではないのだ。

認知症の夫とケンカになるとき、私は、苦悩を抱えた夫の痛みを汲みながら、けれども、がまんできなくなって言い返してしまう。そして、夫にとって言われたくないことを言ってしまう自分を責める。

自分の中で処理しきれない自分の感情と向き合い、同時に夫に思いを寄せる。

なぜ私がそこまでするのか。それは相手が夫だからだ。

介護には、目に見える部分だけではなく、表からでは見えない、心の問題も絡んでいて、その心には、介護される側の心だけではなく、介護する側の心も含む。

それは在宅介護に限った話ではない。

認知症の家族が施設で暮らしていれば、一緒に暮らせないからこそ、他人に家族のことを託しているからこそ生まれる葛藤があるだろう。

ただ施設で暮らしてくれていれば、相手を罵倒したり、殴り合いのケンカはせずに過ごせるのではないかと思う。

今回このような介護にまつわるケンカと葛藤について書こうと思ったきっかけは、夫とは殴り合いのケンカができるけれども、親は殴りたくない、殴れない、それはなぜだろうかと考えたからだ。

相手が誰であれ、殴り合いのケンカはもとより、どんなケンカであっても、私はしたくない。そして相手が誰であっても、私は誰も殴りたくはない。

けれども、認知症の夫のわがままに堪忍袋の緒が切れて、手が出て、罵倒してしまう。したくないこと、してはいけないことをしてしまい、そのことで私は自分自身を責める。

我慢できなかった自分と、我慢したくなかった自分と、相手は認知症なのだから我慢しなければいけないだろうと諭す自分と、自分の中で、いろいろな自分がせめぎ合い、葛藤している。

その葛藤に要するエネルギーを、夫が絡む問題に対しては使うが、親に対しては使いたくない。

親の問題は親の問題であって、私の問題ではない。親の問題を私の問題にしないために、私は親を殴らない。

夫とは、自分自身と葛藤してでも一緒に暮らしたい。けれども、親に対しては、そこまでのことをするつもりはない。

夫とはケンカした後、ちゃんと仲直りができる。夫は認知症だけれども、反省ができるし、ごめんなさいも言える。夫は、自分自身と向き合える人なのだ。そんな夫の傍にいるから、私も素直に反省できるし、直ぐにあやまれる。だから仲直りできる。

一方、両親はといえば、どんな問題に対しても逃げの姿勢が強い。

私は大人になってから、母を蹴ったことがある。

私に対して母が腹の立つことを言ってきたので、私が言い返したら、母はだんまりを決め込んだ。なにを言っても返事がない。「なにも言わないのならコレ(そのとき手に持っていた犬のご飯皿を)投げるぞ」と予告したら、母が「好きにすればいい」と言ってきた。「それしか言えることがないのか」と私が返したら、やはり母はなにも言わない。こんな親に育てられたことが情けなくなり、さすがにステンレスの皿を投げつけるのは危ないから、こたつで寝ていた母を蹴った。

それでも母はなにも言わず、それを見ていた父もなにも言わない。

打ってもなにも響かない人のために、自分のエネルギーを使って葛藤するなんてバカらしいことしたくない。自分自身や相手と向き合うことができない人とケンカするだけ時間の無駄だ。

私と夫には、ケンカしてきたからこそ深まった絆がある。

私が優しいから認知症の夫と暮らせるわけではない。私と夫だったから、今までなんとかやってこられたのだ。