道 つれていって あの 場所に ぼくの あの 場所に あの いろ あの におい あの おと あの くうき つれていって あの ぼくのところに
夫の認知症の症状の中で、夫と私、ふたりを一番いたぶったのが、『帰宅願望』だった。
ある日、今、自分が浜松(夫の母の実家)にいると思った夫が、歩いて鎌倉(出身地)に「帰る」と言いだした。
左手に海を見ながら道を進めば、鎌倉に着くと、3時間ちかく歩き続けて、夫はあきらめた。
私たちが住んでいるのは、大阪の海沿いで、鎌倉までだと、浜松からよりもさらに遠く、紀伊半島もあるので、そのルートでは、ものすごく遠回りだ。
けれども、確かに、海沿いの道を進めば、鎌倉に辿り着く。
夫は、間違っていない。
と思いながら、私は夫と一緒に、海沿いの道を歩いた。
ちなみに帰りは電車に乗った。海沿いの道と並走するように線路が続いていることを私は知っていたので、帰りの心配はしていなかった。
夫の認知症が進み、自分がどこを目指しているのかハッキリとわからなくなっても、夫の『帰宅願望』は、やまなかった。
夫は、自分がどこにいきたいのかわからず、心も体も迷子になっていた。
その姿を見ていて、私は、夫が目指しているのは、場所のようで、それだけではない。過去の時間のようで、それだけでもない。
夫が目指しているのは、きっと、『自分のこと』『自分の居場所』『自分を取り巻くさまざまなこと』がわかった、あのころの自分なんだと思った。
だから、帰りたくても、帰ることができない。
それは、夫もわかっていたし、私もわかった。
わかっているのに、そでれも、夫は止まらなかった。
そして、私も止めなかった。
ここで、夫の思いを吐き出させないと、夫が次に進めないような気がしたから。
最近、私は、Instagramで使えそうな曲を探しているのだが、『カントリーロード』の歌詞を読んでいて、この詩の中にある気持ちが、あのころの夫の姿のように感じて、号泣した。
『take me home』
自力では帰らなっから、つれていって
『to the place I belong』
自分では、自分の場所がわからないから、自分の場所につれていって
『あのときの ぼくに帰れるところに つれていって』
そう読めた。