夫が帰りたいところ 目印としてのふるさと

日記

夫は、よく家に帰りたがる。

それは、帰宅願望といわれる、認知症の症状のひとつ。

家にいるのに、家に帰りたがる。

夫が帰りたい家。

それは、今、私と住んでいる家ではない。

夫が帰りたい家。それは、生まれ育ったふるさとの家、のようで、そこだけではない。

ふるさとに帰っても、夫の生家は、もうない。

そのことを夫は、覚えているときもあれば、忘れているときもある。

夫が帰りたくて、どこかを目指して歩いているとき。夫の頭の中にあるのが、生家のときもあれば、そうでないときもある。

自分が帰りたい場所がどこだか、まったくわからないのに、帰ろうとして、歩いているときもある。

「帰る」と口にはするが、どこかに帰ろうとしているわけではないのかもしれない。

そのとき夫には、目指している明確な場所がないのだろう。

では、どこに帰ろうとしているのか。

それは『いろんなことが、ちゃんとできた自分、だったころ』のような気がする。

夫が帰りたいのは、きっと昔の自分。

帰りたいというより、戻りたい。

帰りたい場所に、戻りたい時間があり、戻りたい自分がいる。

その時代の自分、そこへ向かうための目印として、ふるさとがあるのではないだろうか。

ふるさとで過ごしていたころの自分に、夫は帰りたがっている。

自分が慣れ親しんだふるさとに帰りたがるのは、自分が把握できる場所に帰りたいから。

夫は今、あやふやな世界で生きている。

そこは、場所だけでなく、自分自身についても、あやふやな世界。

自分のことが、ちゃんとわかって、自分のやりたいことが、ちゃんとできた、時間と場所に帰りたい。

夫は『ちゃんと』という言葉をよく使う。

『ちゃんと』

時に夫はその言葉で、ちゃんとできない自分自身を責めているように、私には見える。

帰りたいどこかを目指して歩きながら、夫が言った。

「一生懸命、帰りたいんだ。それで、ちゃんと帰れたら、うれしい」

夫の顔が晴れた。

ちゃんと帰れた自分を想い描いたのだろうか。

私はこのとき、夫の思いに触れた気がした。

夫の強い帰宅願望は、夫のひた向きさの表れ。

『ちゃんと』という言葉は、夫の原動力。

夫は、自分の願いを叶えるために、がんばっている。

私は、私と暮らす家を「ここは僕の家ではない」と言う夫の言葉が『いっこ(私)は僕の家族ではない』と言われているに感じて、寂しかった。

私と夫が家族であることを夫に否定されているような気がして、深く傷ついたし、今もそれは、かわらない。

けれども、夫のその言葉を聞けたとき、一生懸命がんばる夫を誇りに思えた。

『ちゃんといろんなことができた自分に帰りたい』

それが夫の夢。

どんなにがんばっても叶わない夢かもしれない。

けれども、それを語れること、それを聞けること、そこに私と夫が一緒にいる意味がある。


これは、私の過去(2020年11月)の日記を加筆修正したものです。