夫が教えてくれる

日記


   夫の肩
 
 「ぼく わからないんだ」

 あさ 夫が つぶやいた

 「なにが わからないの」

 私が たずねる

 「わからない」

 ベッドのふちに
 並んで
 座った

 夫は 肩を
 落としているようだった

 こんなとき 私は
 夫の肩を抱けてよかったと思う


夫は、認知症になり始めたころから、『わからなくなってきている』とうことが『よくわかっていて』、それを口にしてくれた。

夫は、昔からおしゃべりで、自分のことを言葉にして表現することに長けていた。

だからこそ、たいへんだったこともあるけれど、対応しやすくもあった。

でも、言葉にできない、しない、否定する、からといって、なにもわからない、なにも感じていない、という証明にはならない。

夫の認知症が今よりもすすんで、ただ寝ているだけの毎日になったとして、なにもわからなくなる、なにも感じなくなる。

そうだろうか。

言葉にできないことと、なにも考えていないことは、違う。

身体で表現でないことと、なにも感じていないことは、違う。

今、夫は、自分の素直な気持ちを言葉や身体で表現できる。

でも、それができなくなったとしても、なにもわからない、なにも感じていない、という証明にはならない。

私は、脳のことも、認知症という脳の病のことも、わからないが、考える、感じる、言葉や身体で表現する、それらの行為が私の感覚に触れないからと言って、それらを司る夫の脳がまったく動いていないと、言い切れるのか。

そして、心臓を動かすこと、呼吸をすること、生命維持は、脳の働きによってなされていて、生きている限り、その人の脳は動いている。

であるなら、生きている限り、なにかを思い、なにかを感じていても、不思議ではない。

夫は今になっても『わからない』ということが『わかっていて』、そんな自分を感じることができ、その姿を私に触れさせてくれる。

※脳死については、私はわからないので、そこは考慮していません。

※詩は、6か月ほど前の出来事です。