大切な怒り 私は夫の怒りを聴く

日記

「そこで、そうやって見ているだけなのか」

出かけたいのに、ひとりでは着替えられない夫が、怒りながら、着方がわからないシャツを床に叩きつけた。

「そんな言い方で手伝ってくれる人なんていないよ」

私は言い返す。

これは、私と夫の真剣勝負だ。

私は、夫の怒りを受ける。夫の怒りを収めることはせず、吐き出させる。

今までの私なら、なるべく夫を怒らさないように対応していた。夫が怒りながら着替えの手伝いを要求すれば、それに従っていた。

でも、私は、ただ従うだけの対応をするのは、やめた。

怒りで人を従えることが、夫の望みではないように思えたし、私が譲歩し続けても、埒が明かないと思ったから。

「(自分が)できないのをみんなで笑っているんだろう」

夫がそう叫び、しばらく黙り込んでから、悲しい声で言った。

「そう思ってしまうのが、嫌なんだ」

夫は妄想で怒っていたわけではなく、嫌なことを妄想してしまう自分に苛立っていたのだ。

自分ひとりでなんでもできたころは、嫌なことは無視することができた。

嫌なことを無視する方法も知っていた。

それが認知症になって、無視したいことが増えたのに、無視するための処理方法は、忘れつつある。

自分の嫌なことから逃げられなくなって、嫌なことを直視せざるをえなくなった。

夫が言う。

「なんでこんな思いをしなければいけないんだ。悔しい」

いろんなことがちゃんとできた昔の自分と、今の自分の違いを、夫は痛いほど感じている。

その感情が、怒りとなって表に出てきているのだ。

私は、夫の悔しさや辛さ、怒りにふたをせず、耳を傾ける。

「生きたいんじゃない、ちゃんと生きたいんだ」

これが夫の望む生き方。

けれども、今の夫が想い描く、ちゃんした生き方は、もうできない。

もうできないことを嘆いている夫に、私ができること。それは、夫と私ふたりなりの、ちゃんとした生き方を模索すること。

そのために私は、夫の怒りは吐き出させる。

怒りを正面から受け取ることは、とってもキツイけれども、夫の心の内が聴ける。

穏やかに過ごさせることだけが、認知症の人の幸せな暮らしにつながるわけではない。

怒りは、大切な感情だ。

怒りの中だからこそ、込められる思いがある。

夫が自分のことを自分の言葉で語り、私がそれを聴くことができたら、きっとふたりの未来は拓ける。




これは、私の過去(2020年11月)の日記を加筆修正したものです。