認知症の人の世界があったとしても、夫は、私と同じ世界でも生きている

エッセイ



家にいるのに「家に帰る」と言って、出て行こうとする家族に、「じゃあ一緒に帰ろう」と言って、一緒に出かけ、頃合いを見計らって、家に連れて帰る。

認知症の人の帰宅願望に対する、対応のひとつであり、夫の帰宅願望に対する、私の対応でもありました。

夫は、帰宅願望とともに、外出欲も強く、夫が「出かける」と言い出せば、止めることはできず、迷子になる可能性もあるので、私も一緒に出かけるしかありません。

来る日も来る日も一緒に出かけ、自分が帰りたい家を探して歩き続ける夫。

だんだん自分がどこへ向かおうとしていたのか、わからなくなってきて、不安になる夫。

けれども、私が示した道は、「違う」という夫。

自分を信じることができず、正しいと思える道を見つけることができない夫。

毎日、心も体も迷子になる夫。

その姿を見ていて、私は、この対応は違うんじゃないか、と思い始めました。

認知症という病から生じる障がい。その障がいが起因となって、周辺症状が出てきます。

以前は、周辺症状を問題行動と呼んでいたようですが、問題行動とは、介護者視点であり、当事者視点に欠けるということで、呼び方がかわったようで、帰宅願望も、認知症の周辺症状のひとつです。

夫の行動を、対応する私の視点からではなく、夫の視点から見たとき、問題は、自分が帰りたい家がどこにあるのかわからないことですが、この問題は、解決しようがありません。

なぜなら、夫が帰りたい家は、現実の世界には、存在しないからです。

認知症の人には、現実とは別の、認知症の人の世界があるといいますが、そうであっても、実際に、夫が生活しているのは、現実の世界です。

解決しない問題をかかえて、このまま迷子を続けさせることが、はたして、夫にとっていいことなのか。

私は悩みました。

悩んで、考えて、夫をみていて、このまま現実の世界から目を背けさせることは、夫が望んでいることではないように、思えました。

それに、夫を安心させるには、夫が『ここが自分の帰る場所だ』と、思える居場所を、現実の世界に作るしかないのです。

それから私は、夫に『夫が帰りたがっている家は、もうどこにもない』と、私の現実世界を伝えるようになりました。

当然、夫は反発します。

夫は、夫からみれば、ウソをつく私から逃げようと、家を出て行く頻度が増し、外を歩き回る距離が延びました。

でも、夫は、外をさまよい歩きながら、このまま歩き続けても『自分が今、帰りたい場所には、たどり着けない』ことを悟ると、ちゃんと自分であきらめられたんです。

そして、『今、自分を迎え入れてくれる場所に、連れて行ってほしい』と、私に頼んだのです。

ちゃんと自分の力であきらめた。

心のよりどころをあきらめる。それは、とても辛いことだったと思います。

その夫の葛藤を間近でみていて、私も辛くてたまらなかったです。

さらに、認知症でなかったら、一度あきらめることができれば、それで区切りがつくのかもしれませんが、認知症である夫は、一度あきらめても、自分があきらめたこと自体を忘れてしまいます。

帰りたい家を探しては、あきらめることを、幾度も繰り返しました。

その繰り返しが夫のためになっているのか、私は当然、悩みました。

けれども、『自分の家に帰ろうとしては、ちゃんと自分であきらめる』。

その夫の姿をみていて、私は、『夫が思い描く家が現実の世界にある』というウソをつくことが、もうできなくなっていました。

夫は、認知症の世界を生きるとともに、現実の世界でも生きています。

そのバランスをどうとってあげればいいのか、現実の世界でしか生きていない私には、わかりません。

私ができるのは、夫が自分の力であきらめられたとき、『帰りたい家はなくても、帰れる場所がある』ことを教えて、一緒に帰ってくることです。

その後、夫の帰宅願望以外に、コロナ禍による環境の変化などで、私の気力体力忍耐力がもたなくなり、薬を使って、夫を少しおとなしくさせました。

それにより、帰宅願望が出ることは減りましたが、薬をやめたら、今度は夫が家出をしようとするようになりました(その話は、また別の機会に)。

でも、あのとき自分がそうして夫を見守ったからこそ、今、夫が、私を信じてくれているのだと思えます。

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