朝、夫が「死にそうなんだから」と言って、着替えを拒んだ。
死にそうだから着替える意味がないのか、死にそうだから着替えられないのか、死にそうだから着替えたくないのか、それは私にはわからない。
死にそうだからなんなのか、夫自信も、よくわかっていないだろう。
いろいろなことが『わからない』。
その感覚に、夫は死を感じているようだ。
夫は、認知症を患うとともに、人としても日々老いている。
自分の老い、ひいては自分の人生について、夫は、不安と悩みを抱え、そこに認知症の症状が加わり、夫の不安と悩みをより複雑にしていた。
着替えることと人生についての悩みなら、比べるまでもなく、人生の悩みの方が重大だ。
そして、着替えをてほしいと頼むだけ、ムダである。着替えるよう強く要求すれば、夫は怒りだし、余計めんどくさいことになるのが目に見えている。
だから今は、夫に着替えてもらうことよりも、夫の人生の悩みに時間を使うことのほうが、大切。
であることは、わかる。
けれども、今日は夫がデイサービスに行く日で、今の私としては、さっさと夫を着替えさせて、デイサービスに連れていきたい。
いや、着替えなくてもいい。パジャマのままでいいから、デイサービスに行ってほしい。
夫の人生の悩みを聴いてあげることは、理想的ではあるけれども、一刻も早く夫をデイサービスに送り届けて、私はひとりになりたい。
それが本音である。
私もじっくり腰をすえて、夫の思いを聴くことはある。
けれども、あの聴き方は、とても疲れる。
疲れることをするためには、私の気力と体力、時間の余裕がなければ、できない。
夫がデイサービスに行ってくれると私は嬉しい。
反対に、夫がすんなりと着替えてくれないだけで、私は、少なからず不機嫌になる。
そんな不機嫌を隠して、夫の話を聴くのはしんどい。
ムリしてでも、聴かなければいけないと思えば、聴くけれども、今は、そのときではないような気がする。
なので、しばらく夫を放っておいて、夫ひとりで自分の人生の悩みについて考えてもらうことにした。
私にとって老いは、未知の世界である。
だからこそ、夫の老いの世界は、興味深いのだが、自分の老いにたじろぐ夫の姿を見ていると、苛立つことも多い。
パジャマ姿のまま、夫は、ソファに座っている。
このまま放っておいて、夫の中でなにか進展することがあるのだろうか。
外からではなんの変化も見られない夫の姿を見ていて、私はだんだんじれったくなってくる。
早く、デイサービスに連れて行きたい。
早く、ひとりになりたい。
がまんできずに夫に声をかけた。
「ソファに座っていたら死なないの?」
「外に出たら死ぬの?」
どちらの問いに対しても夫の答えは同じ
「わからない」
そう、いつ死ぬかなんて誰にも『わからない』。
『ならばなにかしようよ』
『とりあえず動こうよ』
『動いているうちに、なにかわかるかもしれないじゃない』
これは私の考え方だ。そして、私の若さから放たれる言葉だ。
この言葉では、夫には届かない。
『わからないから、なにかするのが嫌だ』
『わからないことをすること、動くことが怖い』
『わからないことをするのは不安だから、したくない』
これは私の推測にすぎないが、夫が感じているのは、こんなことのように思える。
私から見れば、夫のその姿勢が、とてつもなくじれったくイライラする。
こんなとき、自分と夫、双方の思いの間で、私はジレンマに陥る。
「いっこ(私)は、いいね。若いからいろんなことができて」
夫がよくそう言う。
私と夫には、35の歳の差がある。
『老いていく自分が嫌だ』
この気持ちは、私にはわからない。
経験しなければわからないことをわかろうとしたところで、実感としてわかるようになるはずがない。
私にできることは、夫の思いを尊重すること。
そして、人を尊重するためには、自分に余裕がなければならない。
だからこそ、夫にはデイサービスに行ってほしい。
ひとりでゆっくり休み、じっくり考え、楽しむ時間が、私の余裕を生むのだから。
結局、予定より2時間遅れて、夫をデイサービスに連れて行くことができた。
遅れても、行ってくれれば、ありがたい。
夫の老いと私の若さ、双方を尊重するための遅刻である。
これは、私の過去(2020年12月)の日記を加筆修正したものです。
※このころ、デイサービスの送迎は、私がしていました。