私は、私に私のことを伝え、それを聴き、自分自身に寄り添う

日記



また夫が、家にいるのに「帰る」と言いだした。

私は大きくため息を吐く。

これは自然に出たため息ではなく、わざと吐き出したため息だ。

ため息で、私は、自分の機嫌の悪さを自分に伝えている。

夫への当てつけもあるが、それよりも、自分で自分の気持ちをはっきり意識するために。

認知症の症状のひとつ、帰宅願望に対して、ああしたらいい、こうしたらいい、というようなノウハウは、知っている。

いまさら介護の本や介護職の人にアドバイスされずとも、家にいるのに帰りたいという夫に、私がどう対応するのが理想的かは、知っている

知っている。

けれども、私が知りたいことは、それではない。

私に気力と体力と時間があるときは、夫の気持ちを聴いたり、夫の興味を別な方向にもっていくように話しかけたり、一緒に散歩に出かけたりもする。

でもそれが、今日も昨日も一昨日も、であったり、1日に2回も3回も4回も、であったり、自分がしたいこと、しなければいけないことをしているとき、であったりしたら、その都度、丁寧に対応することなんか、できない。

そして、丁寧な対応はできなくても、その都度、なにかしらの対応はしなければならない。

夫の要望を無視すれば、より手間がかかる事態に発展していくからだ。

私は、いついかなるときでも、夫の要望に対して、なにかしらの対応をしている。

日々、そんなことの繰り返しで、私の機嫌は、ちょっとしたことでも、当然のように悪くなる。

認知症の人と接する際のノウハウやアドバイスには、こちら側の事情や機嫌の悪さが考慮されていない。

自分の機嫌が悪いのに、自分の機嫌を悪くした張本人を思いやることなんてできないし、自分の気持ちを置き去りにして相手を尊重すれば、自分の身が持たない。

私が知りたいのは、その時の自分の機嫌の悪さをどうすればいいのか。

自分の事情と相手の事情との間で、どう折り合いをつければいいのか。

けれども、そんなこと、誰も教えてくれないし、どこにも書かれていない。

認知症をわずらう家族と険悪な雰囲気になったら、その場をいったん離れましょう。

なんてことが書かれてあったりするけれども、目を離せばひとりで出て行ってしまう夫の場合、それはできない。

それに少し離れたくらいでなんとかなるほど、私の不機嫌さは軽くない。

介護保険を使ってデイサービスやショートステイに行ってもらい、自分の時間を作りましょう。

というようなアドバイスだって、機嫌が悪くなったその瞬間に使える方法ではない。

私も自分の気持ちを後回しにして、理想とされる方法を繰り返し試みていた時期はあった。

けれども、自分の気持ちを蔑ろにし続ければ、いずれ自分が壊れる。

それが私の実感だ。

認知症をわずらった夫と関わる中で、私は、自分が最も寄り添わなくてはいけないのは、夫ではなく、自分自身であることに気づいた。

自分で自分に寄り添い、自分で自分を支えることで、ようやく相手に寄り添うことができる。

在宅介護においては、介護する側である自分を一番大切にしてあげないと、続かない。

自分を大切にすることは、自分を優先することではない。

今の自分の気持ちに耳を傾け、自分の思いを聴き、自分自身をわかってあげようとすること。

そして自分の気持ちは、自分の心の中だけで感じるよりも、表に出して認識した方が、より具体的に自分に伝わる。

夫の『帰る』という言葉を聞いた私は、盛大にため息を吐き、自分の機嫌の悪さを確認する。

ため息の1つや2つでは全然足りないぐらいの機嫌の悪さだ。

体がなかなか動かない。

夫が「帰る」と言うのであれば、一緒に出かけて、近所をウロウロ歩き、頃合いを見計らって、家に帰ってくるのが、一時的ではあるにせよ、夫の帰宅願望を収拾する方法であることは、わかっている。

わかっていても、体は動かない。

それほど、私は疲れている。

今ここで自分の気力と体力と時間を出し惜しんでいると、後でその倍の気力と体力と時間を消耗することになる。

それもわかっている。

わかっていることを自分に言い聞かせ、なんとか力を振り絞り、無理やり体を動かして、夫とともに散歩に出かけた。

この繰り返しの積み重ねで、認知症の人と暮らす家族は、疲弊していくのだろう。

不機嫌で、疲れていて、体が思うように動かない。

動きたくない。

それでも無理やり動かす。

動きたくないという自分の叫びを聴きながら、それでも動かないといけないのだと自分に言い聞かせる。

まるで拷問だ。

そう、家族の認知症の症状と付き合いながら暮らすことは、ときとして拷問に近いものがある。

こちら側の意思と尊厳は、徹底的に踏みにじられ、相手の要求に従うしかない。

だからこそ私は、私の意思と私の尊厳を大切にしてあげないといけない。

これは、よりがんばるための方法ではなく、がんばっている自分を認め、褒め、労わるための行為。

自分自身に『がんばってるよ。よくやってるよ』と言葉をかけ、自分自身に寄り添ってあげる。

本当は、必死になって自分の意思と尊厳を大切にしなくても、無意識で自分のことを大切にできればいいのだけれども、家族の認知症の症状に振り回されながら暮らしていると、意識しなければ、自分を大切にすることを忘れてしまう。

だから、私は意識して、私に私のことを伝え、それを聴き、自分自身に寄り添う。


これは、私の過去(2020年11月)の日記を参考に書いています。