不動産売却と意思能力

夫は、認知症の初期(2018年)に、当時住んでいた分譲マンションを売却しています。

認知症が進むと、その人が行った法律行為は無効となり、契約が成立しなくなります。

なので、認知症の人が住んでいた持ち家を、施設入所を機に売却しようとしたら、売買契約ができないので、売れなかった、というのはたまに聞く話です。

私には、どの程度の認知症なら、どのような法律行為ができるのかは、わかりませんが、わが家が夫の不動産を売却するに至った経緯と経過を紹介します。

なぜ不動産を売却することになったのか

私たち夫婦は、夫が認知症になったことをきっかけに結婚しています。

結婚する以前は、私は大阪、夫は千葉に、それぞれ一人で住んでいました。

私は、生まれも育ちも大阪です。

夫は、もともと鎌倉育ちで、大人になってからは転居が多く、千葉に思い入れはないので、大阪に引っ越してもいいということでした。

もし、夫が慣れ親しんだ土地に住んでいたのなら、引っ越すことを躊躇ったかもしれませんが、そうではなかったので、ならば、介護者である私が住み慣れた土地に住んだ方がいいと考えて、大阪で暮らすことにしました。

そのようなわけで、夫が当時、住んでいたマンションを売ることになりました。

意思能力

認知症であっても意思能力があれば不動産を売却することができます。

※意思能力 不動産を売却する場合
『自分が持っているどの不動産を、誰に、いくらで、いつ売るか、またそれを売った結果どうなるのか、判断する能力』

当時の夫は、私の目から見れば、マンションを売却するための意思能力がありました。

一般的に、わざわざ意思能力があるか確認されることはなく、通常のやり取りができれば、意思能力があるとされます。もし、意思能力の有無に疑いがあれば、不動産売却の場合は、司法書士が、その人に意思能力があるかどうか確認します。

私の親戚が司法書士をしていたので相談すると、夫が認知症であることは、不動産屋にも司法書士にも黙っておけばいい、とアドバイスされました。「大丈夫、大丈夫」といった感じの軽いノリで。結果からいうと、それで大丈夫でした。

司法書士に、夫の意思能力があることを医師の診断書や、夫とのやり取りによって、確認してもらうこともできましたが、夫が「自分が人から、意思能力があるかどうかの確認が必要だと思われている」と知れば、プライドが傷つき怒り出すことが目に見えていたので、それは避けたかったです。

さらに、当時、夫の私に対する執着と束縛がひどく、私が一人で外出することが許されず、それに私は相当まいっていました。とにかく一刻も早く千葉のマンションを売って、大阪に帰りたかった。なので、余計な時間をかけたくありませんでした。

不動産屋さんとの契約

不動産屋さんとマンション売却の媒介契約(仲介してもらう契約)をしているとき、契約者が制限行為能力者ではない、という確認事項で「たとえば、認知症とかでは、ないですよね」というような質問が、不動産屋さんからされました。

制限行為能力者ではない確認は、契約者が誰であっても行われるものですが、認知症であれば、すなわち制限行為能力者になるわけではありません。

なのにこのような質問をしたということは、何度も同じ話をする夫を前にして、不動産屋さんは若干疑っているようでした。

それにたいして夫は「もしかしたら、そうかもね」とおどけた調子で言いました。これはうまいです。お客さんにそう言われたら、不動産屋さんは「またまた冗談を。まだまだ若いですよ」というような返事をするしかありません。

また、夫は、はぐらかすためにそう言ったのではなく、素直な反応がそれだったのです。

この時点で、夫も私も、夫が認知症であると医師に告知されていませんでした。

どうも医師は、なにかの検査をした後に、確定診断をしたいようでしたが、夫がその検査を拒んだので、できずにいました。なので、医師としては、診断を下す段階ではなかったのだと思います。

私は、夫は認知症かもしれないのであって、確定されたわけではない、と自分に言い聞かせ、不動産取引にかかわる人たちに、その疑いがあることを黙っていることへの後ろめたさを、かき消していました。

なんにせよ、夫は制限行為能力者ではありませんし、ウソはついていません。

すぐに買主が見つかる

夫は空間デザインのセンスがあり、夫の部屋は、高齢の独身男性が住んでいたとは思えないほど、おしゃれでした。

マンションを売りに出したときは、私も一緒に住んでいましたが、売れたらすぐに、大阪に引っ越す予定だったので、私の荷物はほとんどありません。

けれども、不動産屋さんも、部屋を内見しに来た人たちも、私を褒めてくれました。部屋をきれいに使っていたのも夫ですが、私の手入れのおかげだと思われていました。

そんな感じで、部屋がおしゃれできれいだったこともあり、すぐに買主が決まりました。見た目って、大切ですね。

内見のとき

マンションを買ってくれたご夫婦が、内見申し込みの際、夫婦とその両親の4人で、うちを見に来たいと希望されたのですが、夫がそれに難色を示しました。

というのも、夫は、何度か不動産を売却したことがあるのですが、一度、自宅を内見しに来た人に、家の中のあった物を盗まれたことがあり、4人もいっぺんに来たら、目が行き届かないから、嫌だと言いました。

ですがこの話、実際は、夫が自宅に知り合いを招待したとき、知り合いがそのまた知り合いも連れてきて、夫がよく知らないその人に、自宅にあった物を盗まれた。これが、まだ認知症になる前の夫から聞いた話です。

それが、内見の話を聞いたときに、夫の頭の中で、場面がすり替わったようです。ということで、ほぼ本当の話なので、夫の話ぶりには、すごく真実味があり辻褄もあっています。

不動産屋さんとやり取りしている夫は、夫のことを知らない人には、認知症であるようには見えません。

一度は、夫の意思能力を疑っていた不動産屋さんですが、このようなやり取りで、夫を、同じ話を何度もする、ちょっと気難しい、よくいる老人だと思ったようでした。

夫に不動産売却の経験があり、不動産屋さんとのやり取りも慣れていたことが、夫に認知症の疑いがあることを伏せて、マンション売却をすることができた、一つの要因だと思います。

大阪と千葉の行き来をやめる

私が大阪で住んでいたアパートは、夫と二人で暮らすには狭かったので、二人で住める広さのマンションかアパートに引っ越す予定でした。

ですが、夫は認知症による妄想で、私が一人で外に出ることは非常に危険だと思っていて、私を一人で外に出してくれませんでした。なので、私が一人で大阪に帰ることができず、大阪で部屋を探したり、賃貸契約するには、夫を連れて行かなければなりません。

夫は、外に移動すると「自分の家がどこにあるのか」という認知に、現実とのズレをおこしていました。

不動産売却では「自分がどの不動産を売るのか」を認知していることが必要になってきます。

なので、夫のその認知を大きくズレさせないために、マンションが売れるまで、大阪へ部屋を探しに行くのはやめて、千葉から動かないことにしまいした。

とりあえず、私が住んでいた狭いアパートに二人で住み、入りきらなかった荷物を、実家の空いている部屋に置いてもらうことにします。

引っ越しが一回増えますが、しかたがありません。

不動産屋さんでの売買契約

夫は痛風持ちです。

不動産屋さんで、買主さんと売買契約をするときも、痛風発作が足の甲にでていました。

さらに、不動産屋の担当者も、数日前まで痛風で、指の関節が曲げられなかったそうです。

買主さんは若い夫婦でしたが、男性は、まだ痛風の経験はないものの、健康診断の尿酸値が気になっているようで、目の前で痛風の痛みに顔をゆがめる夫を見て、自分の将来に不安を覚えたようでした。

売買契約のかたわら、痛風の話でもちきりになり、夫に認知症の疑いがあることを気取られることなく、契約は締結されました。

痛風発作が役に立った、夫にとって一生に一度の出来事かもしれません。

司法書士の滞在時間、たったの5分

私が不動産売却での最大の山場と考えていたのが、司法書士との顔合わせでした。

夫に認知症の疑いがあることを一番悟られたくない相手、それが司法書士です。

マンション売却というミッションをなんとしてもクリアして、早く大阪に帰りたい。その思いと緊張で、私は司法書士に会う2,3日前から眠れませんでした。

不動産売買では、司法書士が買主にかわって不動産登記をするのが一般的で、売主が司法書士と会う場所は、司法書士が行ける場所ならどこでもいいそうです。

なので、夫が「どの不動産を売るのか」一番ちゃんと認知できる、今売ろうとしている不動産(自宅)に司法書士に来てもらうことにしました。

司法書士さんと不動産屋さんが二人そろって来られました。

私は夫の傍から離れるわけにはいかないので、お茶も入れずに、4人でダイニングテーブルに座ります。簡単な挨拶の後、司法書士は、必要な確認をして書類を受け取ると、すぐに帰って行かれました。

司法書士の滞在時間、わずか5分。作業時間ではなく、滞在時間です。もし私がお茶を入れていたら、入ったころには、もういなかったですね。

私が最大の山場だと考えていた場面は、たったの5分でした。親戚の司法書士が「大丈夫、大丈夫」と軽く言った意味が、ここでわかりました。

司法書士は、売主が認知症であるかもと疑いの目でやってくるわけではありません。認知症初期だと、少し会ったぐらいで疑いを持つことは難しいので、結果、司法書士としては、いつもと同じ対応をしただけになったのでしょう。

ですが、私の目から見ると一瞬あぶなくて、夫が書類に署名をするとき、字が出てこなくて戸惑っていたのですが、私がさりげなく、えんぴつ書きされた夫の名前を指さすとともに、ここに書くんだと誘導して、事なきを得ました。

無事に売れて、引っ越す

買主さんへのカギの引き渡しや、残金の入金などは、不動産屋さんに任せて、私たちは、大阪へ引っ越しました。

私たちは、親戚の司法書士が言ったように「大丈夫」だったのですが、司法書士や弁護士が、当事者が認知症であることを見逃したために、裁判にるケースが増えてきているので、この先は、このときのようには、いかなくなっていくと思われます。

また、認知症である可能性があることを伏せて、不動産を売却した。この法律的にグレーな経験が、誰かのお役に立てるのか、いささか疑問ですが、きちんとした手段(意思能力があることを証明する、成年後見人を立てる、など)が紹介された本やサイトでは、読めないような内容なので、認知症にまつわる話として載せております。

結局ですが、なぜマンションを売ることができたのかと考えれば、やはり、夫にちゃんと意思能力があったからだと、私は思います。