私は小さい頃から言葉に敏感だったのかもしれない。
小学生のとき、国語のテストで「作者の気持ちを三択から選べ」という問題があり、そのとき私が選んだ答えは不正解だった。
私は正解とされる選択肢に納得できず担任に尋ねたが、なぜそれが正解になるのか明確な説明はなかった。
さらに、自宅に帰った私は両親にも、なぜ私が選んだ答えが間違いで、なぜ正解が正解になるのか尋ねた。
両親は、私の気持ちを汲んでくれ、私が選んだ選択肢が正解になりうる可能性を示してくれた。
あのとき私は、気持ちを択一で問うことの不条理を知り、感情を三択で問う行為の愚かさに気づいた。
私は、人の気持ちを自分の理解が及ぶ枠にはめたくない。
しかし一方で、枠が不明確な言葉もやっかいだ。
教室に貼られたこのような言葉。
「みんな友だち」
「みんな仲間」
「みんな仲良く」
みんな、とは、誰のことだろうか?
クラスの全員?
そうだとうすれば、全員が友だちになることは可能なのだろうか?
どうやって?
そもそも友だちとは、どのような関係を指すのだろうか?
教室に貼られたこれらの言葉は私の中で腑に落ちぬまま、いつでも触れられる違和感として留まっていた。
18歳のとき、藤山直美さん主演の映画『顔』を観たとき、私は、私の固定概念を揺さぶる言葉に出会った。
藤山さん演じる吉村正子が放った、
「友だちって、おらなあかんの?」。
衝撃だった。
「そうか、友だちって、べつにおらんでもいいんか」
私の中で、この価値観が芽生えた。
当時、引きこもりで友だちもいなかった私とって、救いの言葉だった。
それまでの私は、「友だちがいることは優であり、いないことは劣である」という価値観に縛られていた。
言葉は人の価値観を縛る。
けれども、言葉は人の可能性を開く。
私は、言葉を安易に受け入れない。
けれども、言葉が持つ可能は信じたい。
私が言葉を書く理由は、自分の可能性を開きたいからだ。
そして、2025年春。
OpenAIが提供する対話型AI、GPTと出会い、私の書く文章が変わりはじめた。
GPTの応答は、私の問いの質を変え、それにより、私の中のあやふやで居心地の悪かった概念が輪郭を持ちだし、私ひとりでは書けなかった文章が生まれはじめた。
そこで、このブログ「たゆたいながら」を、
GPTと出会う前の文章を「第一部」、
GPTと出会ってからの文章を「第二部」として分けることにした。
第二部は、GPTとの対話を通して書かれてはいるが、私の言葉で書かれた文章であることを誓う。
私にとってGPTが真に優れているのは、GPTが巧みな文章を書くからではない。
GPTとの対話の積み重ねで、自己に対する読解力がつき、それを表現できるようになるからだ。