ひとりで暮らすことが難しい人を、自宅で暮らせるようにする。
『在宅介護』を成り立たせるためには、ある程度の環境を整える必要があります。
そして、必要な環境は、家庭の状況によって違います。
たとえば、介護に協力的な家族が複数いれば頼もしいですが、わが家の場合、夫の介護をしている家族は、私だけ。ですが、なんとかなっています。
それは、夫の配偶者である私が、健康で気力と体力があり、さらに私が働かなくても生活できる、私が夫の在宅介護に専念できる状況があるからです。
介護保険などの福祉サービスを利用するとしても、それでは行えない部分、それだけでは足りない分は、家族が行うか、自費でサービスを受けることになります。
『在宅介護』をするためには、家族のマンパワー、もしくは、マンパワーを買うためのお金が必要になる。
私は常々、自分が夫に行っていることは、お金を得ることはできないけれども、お金を使わないことには、寄与していると考えています。
家族による在宅介護は、無償労働のように思われるかもしれませんが、家族以外に頼むと発生する出費を抑えている。その意味では、有償労働です。
そして、家族を介護するために働かなかった時間は、お金がもらえる仕事をしていれば、収入を得ることができた時間にもなります。
家族のマンパワーには、お金と同じ価値が含まれている。
私のように、自ら望んで、家族の介護をしているのならいいですが、家族だからという理由で、労働力を無償提供させられて、そのことに不満を抱えている人も、たくさんおられることでしょう。
可能なら、家族のマンパワーにも、なんらかの対価は払ってあげてほしいです。
私の場合は、衣食住すべて夫のお金でまかなわれていて、さらに夫のお金で自分の趣味の物も買っているので、それが金銭的な対価になります。
わが家の場合、家族のマンパワーとしては、私ひとり分しかないけれども、その私が、健康で気力と体力がある。
介護にじゃんじゃん使えるほどのお金はないけれども、私が働かなくても、やり繰りできる家計状況ではある。
そして、利用できる福祉制度は、たぶん漏れなく利用している。福祉制度を利用できているかどうかで、家計の出費は大きく変わります。
夫に入所施設で暮らしてもらい、私がフルタイムで働くこともできますが、私は夫の在宅介護に専念しています。
それは、私がそうしたいと思っていて、さらに、それができる状況だから。
さらには、収支を計算したうえで、天秤にもかけています。
収支の計算
【 プラス+ 】 私が働くことで得られる収入 【 マイナス- 】 夫が入所施設で暮らすことによって増える支出 夫が施設に入所することで利用できなくなる福祉制度(特別障がい者手当など) 私が働くことで増える、税や公的保険の負担 など
天秤にかける
上記の計算により、増えるであろうわが家の所得金額 今、私が働かないことによる、私の将来の不安 夫と自宅で暮らすことで得られる、プライスレスな経験
その結果、私は『プライスレスな経験』を選び、さらにその『プライスレスな経験』を選択できる状況が、わが家にはありました。
自宅で夫と暮らしながら、私が、短時間だけ働きに行くこともできますが、それをしないのは、働かなくても家計がなんとかなることと、働かなくても生活できるのなら働きたくないという私の性格と、急に夫に何かあって仕事を休まないといけなくなったとき、周りの人にかける迷惑を考えることで感じる私の焦りの排除が、主な要因です。
ここまででわかるように、わが家の状況は、恵まれています。
わが家には、余裕がある。
そして、その余裕は、私の心の余裕にもつながります。
介護する家族が、どれぐらいの余裕を持てるかで、できることが変わるし、介護の限界も変わってくる。
世間では、認知症の人にしてはダメだとされている対応でも、それが、私と夫の暮らしを続けていくため、私や夫の将来のため、この瞬間を乗り切るため、必要だと思えば、私はそれをやってきた。
世間のダメだという言葉を跳ねのけて、挑戦的なことをしてきた。
今の自分たちだけでなく、将来の自分たちも見すえて、行動してきた。
なぜそれができなのか。
それは、わずかでも、常に有余があったから。
私が限界突破していた時期でも、それでも、ふたりの未来を目指して、持ち堪えるための、わずかな有余があった。
気力と体力とお金、そこから生まれる、有余や余裕がなければ、今ここには、これなかったかもしれない。
私は常々、夫とのこの暮らしを実験的だと考えています。
今までダメとされてきたことをやる。
それが本当にダメなことなのか、自分の目で確かめる。
『実験』
その瞬間は、間違った対応に見えても、将来的には、その対応があったから、今のこの関係がある。あのときは、あれでよかったと、いつか振り返れば思えるかもしれない。
いや、そう思うために、今、この瞬間をなんとしても乗り越える。
私は、その瞬間だけでなく、長い目を持って、夫と接してきました。
長い目を持てたのは、それを持てるだけの環境があったからです。
そんな、実験的で挑戦的な対応を可能にした『わが家のある程度の環境』について、連載していきます。