私は我を忘れたことがない 夫を殴っているときも 通報されたら逮捕されるだろうと 考えながら殴っていた 夫を蹴っているときも 行き過ぎているとわかっていた 夫と引き離されるかもしれない そんな私が避けたい未来も思い描いた それでも 止まらなかったし 止められなかったし 止めたくなかった 罪や罰や自分の未来でさえ 抑止力にはならなかった
私は、いつか、この時期のことをなにかの形で表現しようと考えていた。
そして、そのとき、私と夫は、このつらい時期を乗り越えている。
目標を目指した。
いや、そのときのために、私と夫は、今を乗り越えているのだと、考えていた。
殴り合いのケンカをしていた時期があったとしても、それでも、仲よく暮らせる日が訪れる可能性があると、私は、証明したかった。
手を上げてはいけないと書いている介護の本に、殴られているのに殴り返せない、そんな状態で、家族関係が続くわけない、日常がやっていけるわけない、と言ってやりたかった。
『瞬間的な怒りは、数秒ガマンするとおさまる』
だからなんやねん。私の怒りは、瞬間的じゃなく、継続的や。
継続的な怒りをなんとか抑えつけていたところに、ガマンの限界を迎えてんねん。
『ケンカになりそうになったら、一旦その場を離れる』
そんなことしたら、夫がひとりでどっかに行ってしまうわ。
『デイサービスやショートステイに行ってもらって、ひとりの時間を確保する』
それが簡単にできることやと思うなよ。
私は、夫にも怒っていたが、それ以上に、きれいごとをほざく、認知症や介護にまつわる、いろいろな言葉に対して猛烈に怒っていた。
認知症の人の暴力や暴言は、本人が悪いのではなく、病のせいなのだから、許容しろというのであれば、こっちだって精神的に追い詰められて、正常な判断ができなくなっている。
だから、私の暴力や暴言も許容しろ。と言ってやりたかった。
ダメなことは、誰がやってもダメやろ。筋をとおせよ。
それに、言っとくけど、相手が先に手を出してきてるんやからな。
それやのになんで、認知症の人だけを擁護すんねん。
なにもかもに腹が立った。
腹が立つことしか言わない言葉に従うなんて馬鹿げている。
そして、私は、日本の法律がどうであれ、殴り合い罵声を浴びせ合いながら乗り越える、選択肢を選んだ。
その点については、夫は被害者かもしれないが、私に捕まってしまったのだからしかたがない。
いま、私と夫は、あのとき私が想定した以上に、楽しく仲よく暮らしている。