認知症の人につくウソ 誰のためにもなっていないウソかもしれない

エッセイ


認知症の人への対応が書かれた本やサイトを読んでいると、ウソをついて、落ち着かせる対処法が書かれています。

  • さっきご飯を食べたのに「ご飯は、まだか」と言われたら、「今、用意しているところ」と言う。
  • 家にいるのに「帰る」と言われたら、「もうすぐ迎えが来ますよ」と言う。
  • 一緒に住んでいない、すでに独立した子どもを探していたら、「いま、その子は、仕事(学校)に行っているよ」と言う。

ここに上げたのは一例ですが、さらに、そのとき認知症の人が持っている関心から、目をそらすような言葉や行為で、やりすごす。

このような対応をする根底にあるのは、認知症の人に対する思いやりであり、相手に不安や不快感を与えないようにしようとする配慮です。

ですが私は、認知症の人がそのウソを直感的に見抜いていることがある、と思っています。

ウソでうまく興味がそれるときがあれば、全く効果がないときもある。

一瞬は興味がそれても、すぐにまた同じことを言いだす。

同じようなウソを繰り返すうちに、認知症の人の混乱の度合いが増して、不穏になってくる。

効果がないのは、ウソが直感的に見抜かれているからで、見抜いているからこそ、ウソを積み重ねられることで、より混乱する。

そして、直感的にウソを見抜いていたとしても、それを的確な言葉にできないので、疑心が不穏として表に出てくる。

誰のことを信じていいのか、わからなくなる。身近にいる人のことを信じられなくなる。

自分のこととして、考えてみてください。

ウソをつく人のことは、信用できません。

信用できない人の傍にいれば、不安になります。

さらに、その人から逃げられないことに恐怖を覚え、パニックになる。

安易にウソをつくことは、けっこう怖いことです。

私も夫にウソをつきます。私の気質が、もともとウソつきなので、口から勝手にウソが出て、自分で自分に感心することすらあります。

ただ、そのウソが『誰のためのウソか』『何のためのウソか』ということを、私は真剣に考えています。

自分の手間を減らすために夫についたウソが、実は、自分の手間を増やしてしまっている、かもしれない。

夫の不安を和らげようとしてついたウソが、より夫を不安にしている、かもしれない。

もし、自分のついたウソで相手が混乱してしまったら、余計に手がとられるし、ウソを重ねたことで信用を失えば、やることなすことすべて疑われ、私では、夫の不安を和らげることができなくなってしまう。

ただでさえ手がかかるのに、そうなったら、どうなるのか。想像したらカオスです。

相手のため、自分のため、どちらのためのウソであっても、ウソは諸刃の剣です。

さじ加減がとても難しい。

それがわかっているのといないのとでは、ウソの質がかわってきます。

そのウソで、相手を混乱させていないか。

そのウソで、相手からの信用をなくしていないか。

そのウソで、自分の手間を増やしていないか。

ウソによる対応は、相手が自分のことを信じてくれるからこそ、有効なのです。

あわせて読んでほしい!