外れなかったリミッター

エッセイ



 力で負けても
 知能で勝てる

 頭を使えば互角に戦える
 そう思っていた

 でも本当は違う
 夫のリミッターが外れれば
 夫のパワーに
 私が太刀打ちできるはずがない

 でも夫はリミッターを外さなかった
 いつも夫が先にあやまり
 私にゆるしを乞うた

 私を止めたのは夫であり
 私を守ったのも夫だった



私が、互いの暴力や暴言を許容してでも、夫との日々を続けようとしたのは、夫が「ごめんなさい」「すみません」「ありがとう」が言える人だったから。

それも、私より先に、それらの言葉を言った。

私が怒りに狂わなければ、夫はもっと早く落ち着くはず。

私が落ち着けば、夫も落ち着く。

私の状態がなんとかなれば、ふたりの暮らしもなんとかなる。

第一優先は、私を落ち着けさせること。

それが、私と夫のケアマネージャーとの、共通認識だった。

話は、冒頭の詩に戻って、

私は頭を使って、夫を抑えつけていた。

夫はパワーだけで私に抵抗した。

体力の消耗スピードは、明らかに夫のほうが速く、私は時間を稼ぐことで、私と夫の体重差と筋力差を埋めていた。

けれども、夫のリミッターが外れたら、そんな小細工は、通用しなかっただろう。

そのころ、精神科病棟での勤務経験がある訪問看護師さんに、暴れる入院患者さんの話を聞いた。

たとえ高齢女性でも、暴れると、男性スタッフ一人で抑えつけるのは難しい。

まして、夫は体格がいいので、「だから、気をつけてね」と言われた。

「(反撃として)硬い何かで殴らなかったら、(素手なら)セーフ」ぐらいのことも言われた。

だから私は、自分がしたことを、看護師さんたちに話せたのだと思う。

自分を責める相手に、正直に話す人なんて、あまりいない。

私が夫を殴るという話をしたとき、だれ一人、私を責めなかった。

問題が、私にあるのではなく、そうなる状況にあるのだと、その状況をかえるために尽力してくれた。

特に夫のケアマネージャーが。

昨日の投稿の続きになるが、

認知症病棟に入院させたくなかった理由のひとつが、夫が『あやまることができる人』だったこと。

力を吐き出させ、疲れさせると、夫は、抵抗しなくなった。それも、わりとすぐに。

けれども、病院ではそんなこと関係なく、暴力があれば体を拘束され、薬で感情も抑えられるだろうと、私は考えていた。

あやまれるようになるまで、待ってはもらえない。

それをしたければ、家族が対応するしかない。

夫が『あやまれる人』であり続けるためにも、私は耐えた。