プライド

エッセイ



 今まで強がって生きてきた人間の
 涙を見た

 今まで守ってきたプライドが
 バキバキと折れていく
 音を聞いた

 プライドを折ったのは
 病であり
 妻であり
 自分自身

 夫は自分で自分を傷つけ
 自分のことをさげすんだ

いま、夫は、幸せかもしれない。

そうだったとしても、それは、あの痛みを耐えぬいた先にある幸せ。

バキバキに折られたからこそ、以前とは違う形になっても、おさまっていられるのだろうが、それは結果でしかない。

『つらかったことや悲しいかったことも忘れられて、幸せかもしれないね』

それが幸せなことか、私にはわからないけれども、そうであったとしても、失ったのはつらい思い出だけではない。

失いたくないものまで、失ってきた。

夫は、認知症に『なっても』幸せかもしれないけれど、認知症『だから』幸せなのではない。

認知症の人の身近にいる人が『認知症になっても、この人は幸せかもね』と思うのなら、それは幸せだと、私は思う。

つらいと思われて暮らすより、幸せと思ってもらえる人たちに囲まれ暮らすほうが、穏やかな顔に囲まれているであろうから。

ただ、認知症になった人の痛みを知ろうとしない人に『認知症になっても幸せ』と、安易に言われると、私は違和感を覚える。

そして、認知症になった当事者が「認知症になってよかった」と言ったとき、その言葉の中にある葛藤に思い至り、胸が締め付けられる。