ちょっとだけ逃避行

日記


私は夫と駆け落ちをしたことがあります。

それも結婚後に。

私と夫は、夫がすでに認知症をわずらっていて、さらに歳の差が35ありましたが、私の身内、夫の身内、ともに誰にも反対されることなく結婚に至っています。

では、なぜ、結婚した夫婦が、駆け落ちをすることになったのか。

コロナ禍が始まって少し経ったころでした。

私は、夫の認知症の周辺症状に疲弊しきっていたうえに、夫以外の誰にも会えず、夫に対するうっ憤が、私の中にたまりにたまっていました。

機嫌の悪い私に、夫が「どうしたの」と、聞いてきます。

「どうしたの」は、夫の優しさですが、その言葉ですらイラっとするほど、私のうっ憤はたまっていました。

そして私は、夫に対して夫のグチを吐き出しはじめました。

私が夫に夫のグチを言っていると、夫は、私のグチの対象が自分だと思わずに、ひどいオヤジが私をいじめていると思ったようです。

「そんなひどいヤツがいるのか」と、怒り出し

「自分と一緒にここを出よう」

「自分の家においで」

「一緒に行こう」と言ってくれました。

私は『あなたのことを言っているんですよ』『ここがあなたの家ですよ』と思いつつも、私をひどいオヤジから救ってやろうという夫の優しさに、惚れました。

夫が「そのオヤジは、今どこにいるんだ。今いないなら、いない間に家を出よう」と言いました。

私は『今、そのオヤジが目の前にいるんだけどな』と思いつつ、『もう夜だし、雨が降っているし、家を出るのは、めんどくさいな』とも思いつつ、『でも、この勘違いにのっかるのも、楽しそうだな』とも思い、一緒に家出をすることにしました。

小雨が降る夜のことでした。

相合傘で駅に向かいます。

まるで逃避行。

『とうひこう』

言葉の響きも相まって、ロマンチックに拍車がかかります。

駅に着き、電車を待ちながら夫が「本当に自分と一緒にきて大丈夫。本当にこれでいいの」と私に尋ねました。

その言葉には、私への思いやりと、夫自身の戸惑いが入り混じっているようでした。

私は「大丈夫。一緒に行く」と夫に答えつつ、この先どうするか考えています。

夫は私をひどいオヤジから救い出してくれましたが、夫に行くあてはありません。

夫を頼ったままでは、夫の頭の中が路頭に迷ってしまいます。この先は私がリードしなければいけません。

あまり遠くに行くと帰りが大変なので、一駅先が終点の路線に乗りました。

緊急事態宣言中だったかもしれません。

夜の電車は、ガラガラでした。

ガラガラの車内。

小雨が降る夜の風景。

ふたりでずっと遠くまで行きたくなります。

ですが、家に帰れないと困るので、終点で降りたら乗り換えずに、駅を出ました。

私が「近くに私の知り合いの家があるから、そこに寄させてもらおう」と夫を誘い、遠回りをしながら家に帰ってきました。

幸いなのかどうなのか、夫はわが家をわが家だと認識せず、「ここにいていいの」と何度も確認した後、疲れて寝てしまいました。

その夜の夫は、覚えているはずの帰りの道も、知らない風景のような反応でした。

緊張していて、記憶力が落ちていたのかもしれません。

私のために頭をフル回転してくれたのでしょう。

次の日の朝、昨夜のことなどすっかり忘れて、いつもと変わらぬ様子で、夫が起きてきました。

『逃避行』

私には無縁すぎて、思ってもみなかったことがおこった時間でした。

思いもよらないところから幸せな時間が生まれる、夫との生活。

認知症の人との生活は、たいへんなことやつらいことも多いですが、それでも幸せな時間があるから、相手を嫌いになれない。そんな人も多いんじゃないかなと、私は思っています。