認知症の人の世界は、どんな世界なのだろう

エッセイ



認知症の人は、その人の生い立ちや認知症の影響によって生まれる、その人オリジナルの世界をもっています。

そして、当然ながら、認知症の人は、現実の世界を生きていて、生きてきた、人ですから、そのオリジナル世界は、現実世界とリンクしています。

現実の世界には、心地よい感情と不快な感情があり、もし、不快な感情がない世界があれば、それは非現実の世界です。

人は皆、現実の世界で生きているわけですから、完全な非現実の世界を実現させることは、生きている限り、ほぼ不可能でしょう。

ですが、不快を極力取り除くことは、できるかもしれません。

認知症の人に、なるべく不快感を与えないよう、特別に気を遣って接している家族も、おられることでしょう。

認知症の人の現実世界には、辛いことがたくさんあります。だから、これ以上、辛い思いをさせたくない。気遣いの根底には、相手への思いやりがあります。

ですが、認知症の人は、本当に、不快を極力排除した世界を望んでいるのでしょうか。

認知症になった夫には、認知症になった自分と葛藤する権利があり、私は、その機会を夫から奪ってはいけない、と思ってきました。

非現実に近い世界で落ち着き、幸せになれる認知症の人もいらっしゃるのかもしれません。

ですが、すべての認知症の人が、不快を排した世界に住むことを望み、さらに、そこで幸せに暮らせるのか。

幸せな暮らしとは、どのようなものなのか。

認知症の人のオリジナル世界のもとになっているのは、その人の過去の現実世界です。

過去の現実世界には、間違いなく不快な出来事があったはずだし、不快な感情もあった。だからこそ、心地よい感情がより強い幸せをもたらしていた。

認知症になったからといって、不快が忌み嫌われる感覚になるわけではなく、あたりまえにある感覚のままなのです。

そして、人に不快感を与えないよう配慮することは、相手が認知症の人に限った話ではありません。

なのに、『認知症の人』と括って、不快感を与えないように、という言葉に、私は疑問を覚えます(その真意は、認知症の人は、なにも覚えていないし、なにも感じないと思われていた、昔の考え方に対する、反省からであると思います)。

確かに、認知症の人は、現実の世界で、その病からくる心身の苦痛を嫌というほど味わっています。ですが、不快を排除した非現実の世界に住まわせてあげれば、幸せなのかというと、それは違う。

相手の気持ちになって考える。それは、どのような人が相手であっても、大切にしたいことです。

ですから、そんなに躍起になって、認知症の人に不快感を与えないようにしなくても、他の人と接するときと同程度の心遣いでいいんじゃないでしょうか。

そのような考えのもと、わが家では、認知症である夫を特別扱いすることはありません。できないことや、わからないことへの配慮はしますが、夫の感情にたいしては、行き過ぎた配慮はしません。

認知症になると世間の常識にとらわれなくなり、その人個人のオリジナリティーが増します。

私には、夫のオリジナル世界をほんの少し垣間見ることしかできませんが、それでも、世間の常識にとらわれない夫の世界、それが、私に与える影響は、はかりしれません。

夫のオリジナル世界のおかげで、自分の常識は、自分オリジナルの常識にすぎないことを思い知らされました。それを教えてくれた夫には、感謝しています。

認知症の人がどのような世界に住んでいようと、過去を生きてきて、さらに今を生きる人。

それは、私たちとなんらかわりありません。

認知症の人が特別であるとすれば、それは、私たちの常識に縛られないところに、オリジナル世界を持つことができるところです。

そこは、世間の常識から抜け出すことができない私が、いくら頭を働かせてもたどり着ける場所ではありません。

自分が思い描く相手の世界と相手のオリジナル世界が、同じにはなり得ない。

そのことを気にかけることができれば、もっと認知症の人とその人のオリジナル世界に、寄り添えるようになるのではないでしょうか。