世の中は、わからないことで溢れかえっています。
そして、わからなくても生活するには支障がないことも、山ほどあります。
私たちは、わからないことを
「わからないといけないこと」
「わかったほうがいいこと」
「わからなくても、自分は困らないこと」
「どんなにがんばってもわかるようになれる気がしないこと」
「わかりたくないこと」
などと分類しています。
そして自分に必要がないと判断すれば、わからないことを無視することができます。
けれども認知症になった夫には、それができません。
わからないことが自分にとって必要なことかそうでないのか、それもわからない。
だから夫は、わからなくてもいいことであっても、目を背けることができずにいます。
わかりたくて、わかろうとするけれども、わかるようになれないとき、私たちは不安になります。
ならば、わかりたいこと、それがなんなのかわからない夫の不安は、いかばかりでしょうか。
さらに私たちは、いずれわかるようになるかもしれないと希望を持ったり、どうすればわかるようになるかという道筋をつけることができますが、夫はそれもできません。
「わからない」ということの重み、事態の深刻さが、夫と私ではまるで違うのです。
私にとって「わからない」は、新しいことを覚えるきっかけであり、覚えることはめんどくさかったりもしますが、好奇心を刺激するものでもあります。
けれども今の夫にとって「わからない」は、不安と恐怖でしかないように見えます。
自分の中にあったはずの、経験や記憶が失われていく感覚。それは、喪失感というような言葉だけで表すことができるものではありません。
なにかが自分から失われていく、そこから逃げたいのに逃げられない。その感覚は、私にはわからない。
私にわかることは、今、夫は必死で、わからない自分と対峙しているということです。
わからないことが多すぎて、わからない自分が巨大すぎて、飲み込まれそうになりながら、必死にもがいている夫。
その苦しみが、いわゆる認知症の問題行動として、表に出てきているのでしょう。
夫の苦悩の発露に対応することは、私も苦しいし根気がいることです。
けれども、それが夫の苦しみの一部であると思えばこそ、私も耐えるのです。
私は夫に、今の自分を否定するのではなく、今の自分を受け入れられる人になってほしい。
目を背けたくなるような自分であったとしても、自分を好きでいてほしい。
夫の認知症になったが故の行動には、その行動自体に、夫の人生において、なんらかの意味があるのだと、私は思っています。
それは、認知症になった夫が、認知症になったけれども幸せに生きていくために必要な、試練なのかもしれません。
いつか夫が自分の「わからない」と折り合いをつけて、生きていけるようになる日を、私は夫の傍で待っています。
人生の難題と向き合う夫に、私は望みをかける。
夫は幸せをつかむことができる。
自分のことを好きでいられる自分になれる。
私が夫を信じなくて、誰が夫を信じる。
これは、私の過去(2020年10月)の日記を加筆修正したものです。