私はただその瞬間 そこにじっとしていてほしくて 起き上がろうとする夫を幾度も 地面に叩きつけ抑えつけた 車が行き交う道路を歩かせる 危険から夫を守る そのことに疲れた私は 公園の芝生の上に夫を引きずり込んだ そして そのとき私が考えついた方法が それしかなかった
芝生の上で、夫を抑えつけながら、夫が誰かを憎むのなら、私を憎めばいいと思っていた。
私がつけた憎しみの傷ならば、いつか傷跡にかえられる。
ただ体につく傷は心配だから、芝生に引きずり込んだ。
これは2年前(2021年)のことで、この時期が本当にしんどかった。
今の夫は寝かせてしまえば、自力では起き上がれない。
寝ている状態は、ケガをすることがないので、体にとっては安全が確保されている(褥瘡とかの心配はあるが)。
だから、夫が自分で思うように動けなくなったことで、私の負担は軽くなった。
私があのころ消耗していた、気力と体力と精神力に比べたら、今の介助量なんて、足元にも及ばない。
ケガをさせないように気をつけなければいけない場面は、限られてて、その結果、私に余裕が生まれて、今の楽しい暮らしに至っている。
冒頭の出来事の半年ほど前、私は、夫を認知症病棟に入院させようと、本気で考えていた。
結局、入院させなかったのだけれども、なぜ、私が夫を入院させることに躊躇したのか。
理由はいくつかあるが、そのひとつが、夫が誰かを憎しみの目で見るのなら、その視線の先には私がいたかった。
入院させれば、きっと夫は抵抗し、複数の人たちに囲まれて抑えつけられるだろう。
夫は、自分を抑えつける看護師さんたちを、憎しみや怒りの目で見る。
そのとき生まれた憎しみや怒りは、ずっと夫のなかに残り、その傷が修復されることは、おそらくない。
たとえ夫が忘れたとしても、私にとって、夫の傷は、傷のまま。
けれども、夫の憎しみや怒りの対象が私であれば、いつか、関係を修復することができる。
私がつけた傷ならば、夫の傷を傷跡にかえられる。