恕す(ゆるす)
思いやりの心で、相手の罪や過ちをゆるすこと。
認知症をわずらう家族に対して、『死んでくれ』と思ったことは、ありませんか。
私は、あります。
思うだけでなく、夫に「死ね」「早く死んでしまえ」と、言ったことも、何度もあります。
いっそ、夫が死んでくれたら、自分は今の苦しみから解放される。そう思いました。
一方で、それで本当に夫が死んだら、私は一生後悔するだろう。とも考えていました。
それでも、その後悔を抱えて生きていくことになってもいいから、死んでほしい。
そのときは、そう思いました。
家族に「死ね」と言ってしまった。『死ね』と思ってしまった。
そんな自分を、人として最低だ、自分は人間ができていない、と責め苦しむ。
確かに、その言葉を発したのは、そう思ってしまったのは、自分です。
でもそのことで、あまり自分を追い詰めないであげてください。
自分の中に芽生えた『その思い』だけで、自分では手の施しようがないほどの傷を、自分が負っている。
家族の介護から、目を背けることができたら、どんなにらくか。
でも、それができない。だから苦しい。
だったら、逃げることをゆるさない環境に、自分の罪を押し付けてやればいい。
『死ねと言ってしまった。死ねと思ってしまった。それは、私のせいではなく、夫のせいでもなく、すべてこの環境のせいだ』
私はそうやって、自分の心を守っていました。
認知症をわずらう家族との暮らしで、傍にいる人が身に着けるべき大切なことが、自分の心を守る術です。
むき出しの心のままでは、やられてしまう。
もし、自分が家庭内で罵詈雑言を吐いてしまったら、それはどうしようもない環境のせいだと、環境に責任転嫁すればいい。
それを言われた家族が自分を恕すかどうかは別として、少なくとも自分は自分を恕してやればいい。
本来の自分だったら、言うはずのない言葉を言ってしまった。
そのことは、自分自身がよく知っているはず。
自分が言うはずのない言葉を言ったとしたら、それは自分が窮地にいるからです。
自分の身に危険を感じたら、自己防衛として攻撃してしまう。
それが動物の本能であり、そういうふうに人間はできている。たとえ相手が家族であったとしても。
人間ができていないのではなく、あったはずの自分の人間性、思いやりや気づかいの心を環境が壊してしまった。
そうやって言い訳してでも、自分を恕してあげてください。
それではあまりに身勝手だと思われたなら、身勝手でもいいじゃないですか。
自分の身勝手で守ろうとしたものが、自分の心なのであれば、それは緊急避難としてゆるされる。
私は、そう思います。
※緊急避難 自分または他人の生命や身体などに対する危険を避けるためにやむを得ずにした行為
相手の気持ちになって考えていない。
そんなことはありません。
相手の気持ちを思っていなければ、こんなに苦しくないです。
相手の気持ちを無視できたら、こんなに苦しまないです。
人として家族として、さまざまな気持ちをくみ取っているから、こんなに苦しいんです。
自分のその苦しみが、相手の気持ちを思いやれている証拠だと、自分を認めてあげてください。
環境のせいにしたところで状況はなにも変わりませんが、それが環境のせいだと思えば、今の環境を変えるために動き出せるかもしれません。
認知症をわずらう家族と暮らす家庭の環境が、なにもせずに良くなることは、まずありません。
環境を少し良くするためには、多大ながんばりが要ります。
少しのために多大を必要とするのですから、考えると嫌になってしまいますが、がんばりを積み重ねていけば「あの頃よりは、まだマシだな」「なんとかなるかな」くらいに、なるかもしれません。
がんばるため、行動する力を湧き立たせるため、前に進むため、自分の罪悪感を環境に押し付けても、環境は不平を言ったりしません。
他人は、自分の心を守ってはくれません。
自分の心は、自分で守らないといけません。
そのために『自分の頭の中で自分がどう考えようと自分の勝手だろう』と、居直ってやる。
これが私のやり方です。
誰もが私と同じようなやり方で、自分の罪悪感を薄めることができるわけではありません。
大切なのは、自分に合った、自分の心の対処法を見つけること。
その対処法が、責任転嫁でも、身勝手でも、自己保身でも、他人にとやかく言われる筋合いは、ありません。