言わないでほしい言葉

エッセイ



『認知症になった本人が一番つらい』

そう言われた時、認知症の人の暮らしを支えている家族は、自分のつらさを、どう処理すればいいのでしょうか。

本人がつらい。それは、確かにそうです。

今までできていたことが、できなくなっていき、自分の中から何かが失われていく恐怖が、常につきまとっているのですから。

では、認知症の人に寄り添う家族のつらさは、その次なのでしょうか。

大切な人、大切だった人を目の前にして、『早く死ねばいいのに』。

そう思ってしまう、つらさは。

そんなこと思ってはいけない、と自分に言い聞かせても、そう思わずにはいられない。

夫の寝顔を見ながら、『起きてこなければいいのに』と思い、泣いた、つらさは。

どうしたら、夫が幸せでいられるだろうと、考えて考えて考えて。

夫が笑顔になれるように、動いて動いて動いて。

夫のつらさに、自分の心を、砕いて砕いて砕いて。

確かに、当事者にしか認知症になったつらさは、わからない。

でも、わからなくても、悔しくて涙がでる。

普段の夫は、思いやりのある優しい人で、私の思いをちゃんと受け入れてくれる。

でも、夫が怒りだすと、頭の中から私との出来事が消え去り、家族であることも忘れて、私は、夫にとって敵であり、赤の他人の位置づけになる。

これが私にとって、どれほどつらいか。

さらに、それが認知症のせい、病のせいであるとわかるからこそ、私のやるせなさの行き場が、ない。

夫が悪いのではなく、怒りで脳が制御不能になり、混乱しているからそうなってしまう。

そう、冷静に理解しようとする自分と、でも悲しくて悔しくて腹が立つ自分。

一人で家から出ていこうとする夫に、『一人で生きていけないくせに。一人で出て行ってどうやって生きていくんだ』『もう追いかける気力もない。心配もしたくない。どこかに行ってしまえ。消えてしまえ。死んでしまえ』と思いながら、でも心配で、見失わないように追いかける。

自分と夫、自分ともうひとりの自分。三つ巴のせめぎ合いで壊れていく自分。そして、壊れるのをなんとか食い止めようとする自分。

もしそんなとき私に「本人が一番つらいのだから」と、声をかける人がいたら、「ああ、私のつらさは、誰にも、わかってもらえないんだな」と、弱音を吐くことをやめてしまう。

認知症の人に寄り添う家族が壊れてしまわないようにするには、誰かに「自分はつらい」「しんどい」「疲れてる」「助けて」と言えるかどうかにかかっています。

だから安易に「本人が一番つらい」なんてこと、言わないでください。

家族は、本人と同じぐらい、時には本人以上に、つらく苦しんでいるのだから。



これは、私の過去(2020年10月)の日記を加筆修正したものです。