わからないことだらけなのは『わかる』のに、わからないことがなにか『わからない』

エッセイ


私たちは日々、わからないことに直面しています。

たとえば、最近増えた、セルフレジ。

あの精算機は、お店によって、お金を入れる場所、お札を入れる方向、おつりやレシートが出る位置がバラバラ。

精算が終われば自動でレシートが出るものもあるけれど、中にはレシートを出すのか領収証を出すのか、選択しなければならないものもあります。

初めて行ったお店の、初めて触る精算機で支払いをするとき、どこにお金を入れるのかわからなくて、まごついてしまう。

いや、それ以前に、支払い方法を選ばないと現金を入れられない機種もある。

私は特に、お札の入れる場所と入れる方向で迷うことが多いです。

けれども、今までいろいろな精算機を触ってきた経験のおかげで、最近は、初見のものであっても、まごつくことが少なくなってきています。

それは、経験の蓄積による賜物です。

経験が自分の記憶の中に留まってくれているうちは、わからない部分を経験が補ってくれる。

さらには、経験によって、自分の手に負えなさそうだと判断できれば、別の選択肢も出てくる。

私たちは、自分のわからないことがなんなのか、わかるからこそ、別の判断をすることができるのです。

セルフレジでいえば、お札を入れる位置がわからない、どのボタンを押せばいいのかわからない。

それでも、そのお店で買い物をしたければ、有人レジに並ぶか、精算機の使い方をお店に人に聞く。それが嫌なら、もうそのお店で買い物はしない。

私たちは、そのような判断を日々しています。

それは、深刻な問題についてわからないことがあるときも、同じです。

『子どもの気持ちがわからない』

『どうすれば、家族のいざこざが解決するのかわからない』

『自分がどうしたいのかわからない』

子どもの気持ちがわからなければ、その子に聞いてみる。もし子どもが口を閉ざすなら、もんもんと思い悩むしかないですが、わかろうと努力はする。それか、あきらめる。あるいは、待つ。

家族のいざこざならば、問題によっては、民間の専門家や行政の相談窓口に相談しに行く。家族だけでなんとかしようとする人もいるでしょう。もしくは、めんどくさいので見て見ぬふりして関わらない。いっそ縁を切ってしまう。こともあるかもしれません。

自分がどうしたいかわからない。これは、誰かに自分の話を聞いてもらったり、自分で自分の話を聞いたりして、自分のことを知ろうとすることが大切だと、私は思います。自分を知れば、おのずと自分がどうしたいかが、わかってくる。

なんにいしても、私たちは、わからないことがなんなのか、それなりにわかっているのです。

なぜ悩んでいるのか、なにが不満なのか、どうしてこうなったのか、どこを目指しているのか、自分の置かれている状況。私たちは、それらをある程度把握している、あるいは、把握しようとすることができる。

けれども、夫は『自分は、なにがわからないのか、わからない』『わからないことだらけなのは、はっきりわかるけれども、わからないことがなんなのかは、わからない』

夫の『わからない』は、漠然としていて、自分がなにに悩んでいるのかわからないのです。

『なにが不満なんだ』

『どのような状況なんだ』

『自分はどうなりたいんだ』

『自分はどこにいるんだ』

『どれもわからない』

私は今、人に伝えるために言語を用いて、これらの感覚を表現しています。

けれども夫の中では、もっとあやふやな言葉、もしくは言葉をともなわない感覚だけがあるのかもしれない。

私にとって言葉及び日本語は、一種の精神安定剤です。

自分の感覚を言葉にすることで自分を落ち着け、言葉にすることで自分を理解しているから。

言葉をともなわない、感覚だけの悩み。

それがどれほど苦痛か、私には想像もできません。


これは、私の過去(2020年10月)の日記を加筆修正したものです。