認知症の人を傷つける人

エッセイ



夫は、認知症の周辺症状でも、とくに帰宅願望が強かったです。

そして、夫が「帰る」と言うとき、そこには、私の負担になりたくない、という思いが込められていました。

私たちは、夫が認知症になってから結婚していて、夫には『おかしくなっていく自分と結婚する』という私の行為が、理解できないようでした。

実際、夫に「なんでそんなことをするのか、わからない。理解できない」と言われたことがあります。

『足手まといになる自分と結婚して、家族になろうとする私』が、わからない。

夫がそのような考え方をしている限り、私のことを理解できるはずがありません。

なぜなら、私は、夫が私の足手まといになるだろうから、結婚したのです。

私はもともと、自分は一生結婚しないだろうと思っていました。自分が誰かと一緒に暮らすことが考えられなかったからです。

しかし、夫が認知症になり、ひとりで生活することが難しくなった。

夫が生きていくためには、自宅で誰かと一緒に暮らすか、施設で暮らすかしかない。

そうなって初めて、私は夫と一緒に暮らすと決め、後々のことも考えて、法的に夫婦になることにしたのです。

夫が自立して生活できたのなら、私は結婚しなかった。

では、なぜ私が、足手まといになるであろう人と家族になり、一緒に暮らす、と決めたのか。

それは、夫となら家族としてやっていける、と思ったからです。

夫となら、夫が認知症でもなんとかなると思った。いやむしろ、認知症になった夫だから、なんとかなると思った。

それまでの夫は強気な人で、弱気な態度を見せることはありませんでした。

ですが、認知症になったことで、弱音がでるようになった。

弱音を吐けるようになった夫だから、結婚してもやっていけると思った。

結婚して5年経った現在、私のその勘のような思い込みのようなものは、おおむね当たっていたかなと思います。まあ、この先なにがあるかわからないですが。

この5年間で、私が夫のことを足手まといに感じた瞬間は、何度もありました。

私のその感情は、きっと夫にも伝わっていたでしょう。

私にそのように思われることが、夫には惨めだったかもしれません。

でも、私よりも夫のことを惨めにさせたのは、たぶん夫自身です。

夫はもともと偏見や差別意識が強い人でした。今の自分のような人がいれば、きっと差別していたでしょう。

夫は、認知症になった自分自身をも、心の中で差別していたかもしれない。

差別する側から、される側になってしまった屈辱。

それは夫のプライドを大いに傷つけたでしょう。

私の役に立てていた自分から、私の負担になっていく自分。

そんな自分が惨めだったでしょう。

強気だけで生きてきた自分が、弱さをさらさないと生きていけなくなった。

自分のことは、誰よりも自分がよく知っています。

だからこそ、誰よりも強く自分が自分を責め立てる。

認知症になった人を傷つけているのは、周囲の人以上に、その人自身かもしれない。

なんの役にも立てない自分が、私の傍らにいると私の迷惑になるから、私から離れて、私を自由にさせてあげたい。

夫の「帰る」には、自分への卑屈さと、私への思いやりが、込められていたように思えます。

これは、2019年から2021年あたりの話を振り返って書いてます。