苦悩の発露を見届ける

私にとって家庭内の殴り合いは、絶対にダメだと言い切れない行為です。

私には子どもはいませんが、年頃の子どもが家で暴れて、親を殴りつけたなら、親としてその痛みを食らってやる。子どもの成長の痛みとして、親が殴られて受けてやる。そのような考えの家庭があってもいいと私は思っています。

親を殴った子どもは、人を殴ることがいけないことだと知っています。知っているけれども、自分ひとりではどうしようもない感情が、握りしめたこぶしの中に込められている。

それを食らってやるのが親の役目ではないのかと、私の生い立ちを振り返って思います。

だから私は、夫の自分ひとりではどうしようもない感情から逃げたくなかったし、抑えつけることもしたくありませんでした。

認知症の人も、人を殴る行為がよくないことは知っています。認知症になって、殴ることがよくないことを忘れたわけではありません。ちゃんと覚えている。けれども自制が効かない。

自制が効かないのは、脳の感情をコントロールする部分に障がいがでているためと、自分では処理しきれないほどの自分の変化に困惑しているためです。

感情をコントロールする部分が未熟であり、それに比べて変化が大きすぎる(高齢者の場合、未熟ではなく、老化というのでしょう)。

成長(老い)の苦悩が暴力という形で発露している。

自分ひとりではどうすることもできない夫の感情を、私は食らってやりたかった。

認知症という病からくる夫の苦悩を、私は夫に殴られてやることで受けてやる。

それは、家族にしかできないことだから。

ただ、自分が殴られっぱなしでは、身がもたないので殴り返す。

言葉にできない家族の苦悩が暴力の中にある。その暴力をすべて抑えつけることが正しいとは、私には思えない。

夫の苦悩を薬で抑えることもできたかもしれません。実際、夫は興奮を鎮める薬を飲んでいて、それが多少は効いていました。興奮を完全に抑え込むために、もっと強い薬を飲ませるという選択肢もありました。

でも私は、夫の苦悩を発露させることを選択した。

それは良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとかそんな次元の話ではなく、苦悩の発露を含めて、夫の人間らしさだと思ったからです。

認知症になるのが人間なのであれば、認知症の人が暴れるのも人間らしさです。

それに対してどこからどこまで医療(薬)が介入するのか、その判断を夫に代わってするのが家族としての私の責任です。

だから、その判断を他人に委ねてしまう施設に夫を入れたくなかった。施設に入れば、自分や他人に危害を加えるような行為は、薬で抑えるしかありません。

夫の苦悩の発露を私が受けることで、夫の人間らしさを私は見ていたかった。

もしかしたら薬で落ち着かせた方が、夫にとって負担は少なかったのかもしれません。

薬で落ち着かせて、施設で暮らしてもらえば、毎日のように私と殴り合いのケンカをすることもなかったでしょう。

それでもそうしなかったのは、夫の生きざまを傍で見ていたかったからです。

私はこの先、夫の寿命を決めることになるでしょう。

どこからどこまで夫の命に医療が介入するのか。

それを決めるのは、夫の配偶者である私です。

看取りとは、死にざまを見届けることです。

夫の生きざまを見ないで、夫の死にざまを決めることは、私にはできません。

夫の人間らしさを知り、夫の生きざまを見届ける、そのために夫の苦悩の発露を食らうのです。