さまよい歩く

認知症の人がひとりで外出して道に迷ってしまうことなどに使わる「徘徊」という言葉を別の言葉に言い換える動きがあります。

「徘徊」には、「あてもなく、うろうろ歩きまわること」という意味があり、「あてもなく、うろうろ」というところが、認知症の人の実情にあっていない、配慮が足りない、ということが言い換えの動機のようです。

認知症に関しては、今から20年ほど前に、それまで呼ばれていた「痴呆」から「認知症」への言い換えが始まりました。

ちなみに、「痴呆」も「認知症」も病名ではありません。状態を表す言葉です。

漢字の「痴」と「呆」は、ともに「おろか」という意味があります。ですから人に「痴呆」と言うとき、そこには「おろか者」という意味が多分に含まれることになります。 

言葉が持つ意味によって人は内容を理解します。侮蔑的な意味を持つ言葉を排除し、より実情にあった言葉でその人たちのことを世間の人たちに理解してもらえるようにしよう。言い換えにはそんな目的があります。

20年の時間を経て「痴呆」から「認知症」への言い換えは、着実に進んでいます。

「痴呆」という表現も残ってはいますが、この先「認知症」が「痴呆」と表現されることは、今よりもさらに少なくなるでしょう。

ですがこれは、認知症のある人の状態として「痴呆」を使わないということであり、日本語から「痴呆」という言葉がなくなるということではありません。

「痴呆」には、その言葉でしか表せない意味や雰囲気があります。

夫が自分のことを「ボケちゃった」と言うとき、私たち家族にとっては「認知症になった」と表現するより、「ボケた」が一番しっくりくる言葉なのです。

それと同じように、「痴呆」という言葉が実情に合っていると思い、その言葉を使っている人から、「痴呆」という言葉を狩るようなことはしないでほしいなと思います。

話を「徘徊」に戻しますが、今現在「徘徊」に置き換わるコレといった言葉がありません。

「ひとり歩き」と表現している自治体もあるようですが、夫の「徘徊」のほとんどに私は付き添っていました。

そのときの夫の行為を「ひとり歩き」と表現されると、私の行為の名前がなくなってしまいます。

あるとすれば「ひとり歩きの見守り」か「散歩の付き添い」でしょうか。

そう表現されると「徘徊」に付き添う家族は、たまったのものではありません。

「徘徊」の見守りは、そんなのどかな雰囲気のものではありません。

6車線もある国道の、交差点でもないところを横断しようとする夫を制止しようとして、殴られ、蹴られ、髪を引っ張られる。それでも、夫を止めなければならない。

「徘徊」を「ひとり歩き」と表現されると、そんな家族の修羅場が霞んでしまいます。

また、認知症の人の「徘徊」には、危険が伴います。

夫のように、車が行き交う道路を渡ろうとすることもあれば、遮断機が下りた踏切内に入る人もいる。帰り道がわからなくなって、帰れなくなる人もいる。

日本では年間、約1万7千件(2021年)の高齢者行方不明届けが出されています。そのうちの何百人かが、生きて家に帰ってこられない。

周囲の見守りでなんとかなる人もいますが、それだけでは対処できない人もたくさんいます。

私自身、夫の「徘徊」に付き添ってきて、夫があてもなくうろうろしているわけではない、ことは知っています。

「徘徊」という言葉よりも、より実情に合った、その行為にふさわしい言葉があれば、私もその言葉を使っているでしょう。ですが現状、夫の行為を人に説明するときに「徘徊」以外にしっくりくる言葉がない。だから「徘徊」という言葉を使います。

たぶん賢い人たちが知恵を絞って出した言葉が「ひとり歩き」なのでしょう。ということは、今の日本語には適当な言葉が存在しないのです。

だったらいっそ、目的がある「徘徊」が存在すると世間に周知させる、そっちに舵を切ればいいように思います。

言葉が持つ意味は移り変わるものですから「徘徊」という言葉に、認知症の人の実情に近い意味を持たせればいい。

昨今、「徘徊」には目的がある、と言われるようになってきていますから、このままいけば、別の言葉に言い換えることなく、世間の人の認識がそのように変わるのではないかと、私は期待しています。

もし別の言葉に言い換えるのであれば、その行為の危険性や緊急性を排除した言葉にはしないでほしいです。

現状の「徘徊」とう言葉が認知症のある人の尊厳を傷つけている面はあるかもしれませんが、一方で「徘徊」が危険をはらむ行為であると人びとが認識していることで、周囲の人の見守りが行われている側面もある。

認知症の人の尊厳はもちろん守らないといけないけれども、同時に安全も守らないといけない。

私たちが最も着目しなければいけないのは、言葉が持つ意味ではなく、行為が持つ意味です。

出発した時には目的があった。けれども途中で、その目的を忘れてしまったか、目的は覚えているけれども道がわからなくなったか、なにかがわからなくなってしまった。次第に焦ってきて心細くて不安になる。けれども、自分ひとりでどうすればいいかわからない。

いわゆる「徘徊」という状態です。

さらにこのとき、道に迷っているだけでなく、自分の生きてきた道、生きていく道においても迷っているのではないか。夫の徘徊に付き添う中で、私が夫から感じたことです。

夫は、体だけでなく心も迷子になっている。いや、心の迷子を体現しているのが、体の迷子なのかもしれない。私にはそう思えてなりませんでした。

夫の認知症の症状の中で、とくに私を悩ませたのが、帰宅願望とそれに伴う徘徊でした。

ですが私を悩ませたぶん、夫の不安や苦悩、葛藤に触れることができた時間でもあったように思います。

夫がさまよい歩いた時間、それは私にとって学びの多い時間でした。

そして認知症になった夫をより知ることができた時間でもありました。